青い眼がほしい (トニ・モリスン・コレクション)
– 1994/6/1 トニ・モリスン (著), 大社 淑子 (著), Toni Morrison (著)
「青い眼がほしい 作:トニ・モリスン 訳:大社淑子」を読んでみた。
とある少女の一年の物語。秋から始まり夏に終わる……のかと思えば、一年の話を追うわけではなく、前後の事柄、さらにその先も匂わせる終わらせ方になっていた。
今でいう『ルッキズム(見た目差別)』をテーマにしつつ、グロテスクで特殊な家庭環境の子どものことが書かれている。私はトニ・モリスンは黒人の物語を書く作家でこの『青い目がほしい』というのも青い眼に憧れる女の子の話という程度の情報しか得てなかったので、それ以上のものが含まれているとは思ってなかった。
この物語は子供への性的虐待描写が含まれている。性的虐待の描写はじわじわと読者に暗に知らせる形で書いてあるので不気味だった。最終的にそうだったと明かされるけれど、大人たちはただ噂をし、被害を受けた子供は現実を拒否し幻覚を見ている。
この時代の『救いのなさ』も書かれていて、尚更グロテスクで気持ち悪く感じてしまった。
周囲の人間たちは加害者を責めつつも、被害者にも非があったのではと囁き合うのも……いや。これは現代もか。
物語は9歳の少女クローディアの語りで綴られていく。
マリーゴールドが咲かなかった秋。友人のピーコラの赤ん坊は死んだという不穏な出だしに惹きつけられる。ピーコラは青い眼をほしがっている11歳。青い眼になれば、周囲は自分を正当に扱ってくれると思っている。
そして、その願いをかなえるために犬を殺し、青い眼になる。というのが一つの物語。
この周りに家族や周辺の人たちの話が入り込んでくる。
気になった部分。
『人生を生きてゆく上に、家なしになることほどこわいものはないとわたしたちは教えられていた。』21p
ここから始まる『家なし』についての説明は現代の『所有すること』にまで繋がるのすごいなぁと思う。財産が個人のものとされているのって、科学が発達してる現代の話なのよね。自然の中で全てまかなえる文化だと家すらも自然からの恵みで全て『自分で作ることができる』から、所有することにそこまで意味がない。この物語ではそういう比較はされてないけど、暗に皮肉を込めてるのかなと思える部分が多々ある。
『わたしは、白いベビードールをこわした。(略)路上で彼女たちに近づくときの黒人女の目づかい、彼女たちを扱うときの独占欲の強い、やさしい触れ方の理由をみつけること。』27p
語り手のクローディアが白人少女に憧れ嫉妬し、何とも言えない感情を吐き出しているシーン。どうして周囲は白人に優しくて、黒人である自分にはそうでないのか。これ、差別もあるけれど、もっと根深い『白人を基準にした社会的価値観』を黒人の子どもの視点で書いてあるのグロテスクだった。子どもだからこそ純粋に、怒りをぶつけて、疑問を持つ。でも、大っぴらにするには難しく理解されがたい……という微妙なバランス。
現代だとディズニーがその価値観を見直して、いろいろなプリンセスを打ち出してるけど、この時代はそれもないので卑屈になるしかないんだよな。それも『人種』という越えられない壁の価値観はどうしようもない。
『彼は、妻の上に、はっきり言葉にできない怒りや、挫折した欲望のありったけをぶちまけた。彼女を憎むことで、彼は自分を無瑕に守ることができた。』50p
白人男にセックスの現場を見られてはやし立てられて、男は女を憎むようになったというシーン。男の怒りは男には向かずに、女に向かうというのをこの間見かけたけど、それをきっぱり書いている小説ってあったんだなぁと思ってしまった。この場合も、見た白人男が悪いのではなくて、見られるような場所で自分を誘った女が悪いという思考が書いてあった。自分を守るために殴りやすい女を殴る。そういう階層の男性だということでもあるけど、鬱屈したものは常に弱者に流れていくんだよね。男は女を殴り、女は子供を殴る。
『つまり人間を認めようという意識の完全な欠如――ガラスをはめこんだように隔絶した感じ――を見る。(略)彼女は、これがすべての白人の眼に宿っているのを見てきた。(略)白人の眼のなかに嫌悪でふちどられた空白を創りだしたもの、その原因となるものは、彼女が黒人だという事実だった。』57p
黒人に向けられる視線が生々しく書かれている。このシーンは白人が黒人に向ける目だけど、黒人すらも同じ目で黒人を見るということも別のシーンでは書かれている。救いのない世界がこれでもかと広げられているけど、ここまで露骨ではなくてもこんな空気感は今の時代にもあると思う。日本だとこういう人種差別ではなくて、ただの見た目差別だけどそれでも当人を傷つけるだけの力は変わらない。
『彼女たちは、小説に描かれている娼婦とは違う。小説の中の娼婦たちは、寛大で立派な心をもちながら、恐ろしい環境のせいで、男たちの不毛な人生を多少とも暮らしやすくするために献身させられ、「やさしい思いやり」の代償として、たまたま、つつましく金を受けとるのだ。』65-66p
小説……物語の中の娼婦という意味だろうけど、確かに言われるとそういう女性として書かれてるものが多すぎると思う。でもここでは『小説に描かれている娼婦とは違う』
『三人の女たちは恥ずかしがりもしなければ、弁解もせず、区別もつけないで、男たち、つまり、すべての男を憎んでいた。彼女たちは、いつものことで機械的になった嘲笑をこめて、自分たちの客を口汚くののしった。(略)彼女たちは、女も尊敬してはいなかった。女たちは、いわゆる仲間ではなかったが、それでも夫を欺いていたからだ』66p
彼女たちは男たちのことも女も嫌いで罵っていた。でも『「善良なクリスチャンの黒人女」と呼べるような人だけを尊敬』67p していた。
これはない物ねだりと、同時に「絶対に自分へ害を与えないものに対する憐れみ」みたいなものもあったのかなと思う。それにしても、ここにかかれてる娼婦たちが生々しくていいなと思ってしまった。
『わたしたちのほうが善良で、頭もよかったけれど、それでも劣っているのだった。わたしたちは人形をこわすことはできたが、この世のモーリーン・ピールたちに出会ったとき、両親や叔母たちが出す蜂蜜のように甘い声、仲間の眼に宿る服従の色、教師たちの眼に浮かぶへつらうような光をこわすことはできない。』87-88p
モーリーンは白人の女の子で、自分が可愛いことを知っている。そして、自分がどんな風に扱われているのかも。同時に語り手のクローディアも同じように知っている。自分たちの肌の色ではその対応を受けられないことを。これもまた生々しいんだよな。『美しい』とはどういうことかを問う文章が何度も繰り返して出てくる。
『おまえはもっと尊敬されるようにしなければいけない、いろいろな請求書の支払いをするのは夫の義務で、もしそれができないというのなら、おまえは彼と別れて、扶養料をもらうべきだと言った。』138p
クローディアの父親が母親の勤め先に行って暴れたことについて、母親を雇っている白人主人が言った言葉。……扶養料のあたりがよくわからなかった。妻が稼ぎのない夫を養っていたら、離婚時に取り返せるのかな。現代ではそういうのはないよね。子どもがいたら別だけど、子供がいなかったら話し合いで生活費を出してる事になっていてお互いに支払い義務はなかったような。取り戻せない代わりに、嫌なら離婚できる……ハズだけど、この時代は違ったという事かな。それともアメリカには扶養料という制度があるの?
『彼にはたぶん、わたしのお産が馬のお産とはちがうことがわかっていたのだろうと思う。だが、ほかの医者たちときたら。彼らには、わかっていなかったのだ。』142-143p
黒人女性だから馬のように陣痛もないと言い張る医者と、そうではないことがわかっていた一人の若い医者。これは妊婦視点のシーンだから、医者はわかってないとなっている。人種差別でよくある『黒人は痛みを感じない』っていうもの。でも、現代日本でも『女は陣痛の痛みに耐えられる』だとか『女は大げさに痛みを訴える』と思ってる医者はいるんだよな。……この時代のアメリカの人種差別の空気感とは別物だけど、薄めた空気なら今も残ってると思う。
『彼は切符を買うために黒人用のカウンターに行った。』175p
あまりにも自然すぎて読み逃しそうになるけど、さらりと混ざる黒人差別の文化。こういう時代だとわかって私は読んでるけど、知らない人が読むとどう読めるんだろう。それとも気にせずに流して読むのかな。
『この上なく美しい貴婦人もトイレにすわり、ふた目と見られないほどひどい顔つきの女が、純粋で聖なるあこがれを抱いていることもある。神の仕事はまずい出来で、ソープヘッドは、自分だったらもっといい仕事をしただろうと思った。』197p
美しい女はトイレをしないって男のロマンなのだろうけど、現実はそんなことはないわけで。それを神の仕事の出来が悪いって思うのか……と思ってしまった。宗教(神様)って都合よく使うのにちょうどいいよね。
グロテスクな男の理想や価値観が出てる。
『わたしたちは王者らしくなるかわりに俗物的なり、貴族的になるかわりに階級意識の強い人間になりました。わたしたちは権威とは目下の者にたいして残酷になることで、教育とは学校に行くことだと信じていました。(略)わたしたちの男らしさは獲得されたものの(に)よって定義され、女らしさは黙従よってはかられました。』202p
誤植なのかな。『の』ではなくて『に』のような気がするので、かっこで書いてみた。()部分は私が付け加えた部分。後の版では訂正されてるのかも。
文章は『男らしさ』と『女らしさ』をわかりやすく書いてある。この前後にも現代的価値観への皮肉のようなものが書き連ねてあった。現代でも似たような価値観がまだ蔓延っている。この辺りの文章、現代にも通じるのすごいなと思う。
『わたしたちは、ピコーラが結婚していないという事実は考えなかった。結婚していないたくさんの女の子が、子供を産んでいたからだ。』216p
この部分もさらりと酷い世界が書かれてる。ここまで書いてあったことからこの物語の子どもたちの環境はかなり下層……娼婦たちと接点を持ちながら、娼婦たちを嫌悪している環境下にあることはわかっていたけれど、子供が『女の子が子供を産むことが当たり前』と思うくらいには低年齢層(十代半ばくらい?)の妊娠が当たり前の世界だと改めて突きつけられる。ピコーラは11歳で、物語の中では大人たちから『まだ早い』と言われる歳ではあるけど、子どもたちにとってはそうでもないという感覚の世界。子どもの視点だけにさらにそれってどうなのかなと思わされてしまう。
『わたしたちは、彼女のほうに目を向けないで彼女を見ようとし、けっして一度もそばには近づかなかった。彼女がおろかだとか、いとわしいからではなく、こわがっているわけでもなく、彼女を助けそこなったからだ。』236p
ピコーラの子どもが死んで、ピコーラは現実との接点を失う。語り手のクローディアはピコーラを助けたいと思いながらも、わずらわしくなり距離をとることになった……という事が書かれてる。最後まで救いがない。
黒人文化というよりも最下層の環境の中でさらに劣悪な状況の子どもの物語。そこに投げ込まれる『大人たちのいう正しさ(白人的価値観)への疑問』
トニ・モリスンの最初の作品は読みごたえがあったし、現代にも通じる部分が多い。
読んでよかった。ごちそうさまでした。