スーラ 単行本 – 1995/6/1 トニ・モリスン (著), 大社 淑子 (著), Toni Morrison (著)
「スーラ 作:トニ・モリスン 訳:大社淑子」を読んでみた。
ボトムという黒人たちの町。その町にずっと暮らしているネルと引っ越して来たスーラの二人の少女の物語。
という説明を読んで、ワクワクと本を開くと最初はボトムで行われた自殺記念日の話だった。スーラは?ネルは?どこにいる??
訳者あとがきに書いてあったのと違う……と思いながら読み進めた。
スーラとネルが出てくるのは自殺記念日……町の説明の後。でも、物語はネルが中心ではなくて母親とその母親との確執。ネルが育ったのは、厳格な母親の元。
次に出てくるのもスーラの祖母の話が中心で、祖母が中心の家だったということが分かる。
スーラの祖母エヴァは一本足でそれについては何があったのかはわからない。噂だけが飛び交う。けれど、人々から信頼されていて、祖母の家には多くの人がやってきて住み着いた。
ある時、息子が戦場から帰って来たけれど、トラウマから酒浸りになり、さらには薬までやっていることをみつけた。祖母は息子を焼き殺す。
一つ目の罪は『エヴァが息子を焼き殺した』こと。
その次はスーラとネルが男の子をはずみで殺してしまう。
二つ目の罪は『スーラとネルが男の子を助けなかった』こと。
この二つの事件が他の物事にもじわじわと影響を与える。
一つ目の罪は家族内で気が付いてしまった人がいる。スーラの母親だ。それをエヴァに問いただした後、スーラの母親は事故で燃えて死んでしまう。スーラは母親が燃える姿を見ていた。
二つ目の罪は長く二人だけの秘密だった。この秘密が二人を強固に結び付けていたようにも見えたけれど、それはスーラがネルの夫と寝たことで変わってしまう。
ネルは最後までスーラに恨みと愛を抱いて終わる。
この他にも町で起こる小さなことや、それぞれの疑惑とすれ違いが起きている。
正直、要素が多すぎ。群像劇は疲れてしまった。
黒人の文化と価値観に人種差別、男女差別、悪(罪)のとらえ方など、理解が追い付かない。
祖母が息子を殺すのも『息子が苦しんでいるから殺す』ではなくて、何と言えばいいのか……「悪しきものに染まった?」うーん。それも違うのかな。「戻ってこない事を知った」みたいな感じかな。家には戻って来たけれど、元の……戦争に行く前の時間には戻れない。でも、エヴァには息子が『私の子宮に戻りたがっている』ように見えた。だから、殺したという告白になっている。戻りたいけど、戻れないから息子は薬にまで手を出したんだ……という理屈だったのかなと思う。理屈というより価値観だから、説明すればするほど『ズレ』が出るんだろうけど。殺すことが悪ではないという価値観はよくあること。ただ、『火をつけて焼き殺す』だったのはキリスト教の影響なのかなと思った。
その次のスーラとネルが男の子を見殺しにしたというのは……年齢は12歳というのを考えると、『水から上がって来ると思った』というのはありそう。自分で上がって来ると思って待ってたのに、出てこなかった。そのまま沈んで怖くて逃げだした。ということなら、まだ分かる。でも、スーラはこれを『面白い』と感じている。その後の母親が燃えているのを見ていただけだったのも『踊ってるみたいで面白い』と思ったから。
スーラはかなり自由というか、変わり者すぎてこうなのかな……と思って読み進めたら、実は違ったみたいな事が後半になってわかってくる。大半の人が感じるようには感じていない。けれど、それを寂しいとも思っている。だから、好きにさせてくれて楽しんでくれるネルが好きだった。ネルの夫と寝たのも、ネルが喜んでくれると思ったから……ということが後になって書かれている。でも、ネルはそれが理解できない。子供時代を過ぎて、大人になったネルは社会で生きるための価値観を身に着けてしまったから。そして、スーラは大人になってもそれを身につけることが出来なかった。
2人の少女の友情モノではあるけど、『受け入れられないもの(悪)を、どう扱うのか』というテーマもあって、そういう話があちこちに出てくる。黒人の社会ではそれらは『ただ、距離を取って置いておくだけ。自分がそれに近づきすぎないように気をつけながら』というような事が描かれている。ここでの悪はスーラで、町の人たちは人の夫を寝取るスーラを嫌っていた。ただ、スーラがいることでスーラに捨てられた夫に優しくもしていたし、子どもたちにもスーラが何かをしないように気を付けてみていた。
それが、スーラが亡くなった途端、町の人たちは夫や子供を無碍にして最終的には……というハーメルンの笛吹のような町の人の終わりも書かれてる。
気になった部分。
『それまで通過してきたケンタッキー州とテネシー州では、自分たちが大変なぜいたくに恵まれていたことがわかった。その二州では、遠距離列車の休憩所にはかならず黒人専用トイレがあったからだ。』30p
まさかの……長距離列車移動でトイレがない。では、どこでするのかと言えば、草むら。最初はやり方がわからなかったというのも衝撃的だった。アメリカのトイレは座る形。日本だと屈む形だからトイレでも草むらでも姿勢は一緒。最近は洋式が増えたから、やり方がわからない人も増えてそう。
『女が近づいてくると、老人たちは帽子をちょっと脱いであいさつし、若者たちは股を開いたり閉じたりした。しかし、すべての者が年齢には関わりなく、去ってゆく女の後ろ姿を興味深く見守った。』61-62p
男たちがたむろしてる場所。年齢にかかわりがないので12歳のスーラたちももちろんそういう目に会う。そして、彼女たちはそうされるためにこの通りを歩くという話。スーラが変わり者だから、これは不良行動になるのかな。
『いつも変わらず親切にしてくれたが、一度もがむしゃらに結婚したがっている様子を見せたことのない女の子、そして、この冒険全体が彼の考えから出たものであり、彼のなしとげた征服であるように思わせる女の子を彼は選びだした。』100p
たいていの男性はこういう結婚を望んでいるのでは?と思う。自分の征服した結果を結婚式という晴れ舞台で見せびらかす。こんなに明瞭に男性の視点が描かれてるのエグイ。
『いわゆる悪魔に取りつかれた日々にたいして、人々は、歓迎しているのかと見まがうほどおとなしい反応しか示さなかった。そのような悪は避けなければならない、当然、そうしたものから身を守る用心をしなければならない、と人々は感じていた。』107-108p
悪の価値観がこういうものだという説明。避けたり、身を守ったりはするけれど、排除することはしない。悪は悪のまま放置するという意識なんだなと。
『スーラには、占有ということがどういうものかわかりかけてきた。おそらく愛ではなく、占有すること、あるいは、少なくとも占有への欲望が。』158p
ここまでスーラは自由奔放だったのに、とある男に執着するようになったというシーン。でも男は、自分を占有しない女が好きでスーラもそうだと思って寝てたのに、唐突にそうではなくなったので逃げていく。
スーラがやっとネルの気持ちの一部がわかったような分からないような……でも、最後までスーラは謝ったりしないし、感謝もしない。
『どんなことでもできはしないわよ。あんたは女だし、おまけに黒人の女じゃない?あんたは、男のように振る舞うことはできないのよ。まったく一人立ちした人間みたいに歩き回ったり、したいことは何でもやったり、欲しいものは手に入れ、気に入らないものは棄てるなんて、あんたにはできっこないわ』171p
スーラの「どんなことでもできる」に対してのネルの答え。
この物語の黒人差別と女性差別が濃厚に詰まっている言葉だなと思う『一人立ちした人間』に黒人女性はなれないという時代。そういう時代があった。……今も?
『誰かによくしてあげるってことは、誰かに意地悪することと同じなの。冒険(かけ)だもの。そのために得るものは何もないのよ』174-175p
これはシーラがネルの「どうしてわたしのことを考えてくれなかったの?あんたに尽くしてあげたじゃない?」に対しての言葉。ネルの夫を寝取ったのに、シーラはネルの夫を愛してなかったと言った会話の流れから。シーラとネルは大人になって価値観が大きく違ってしまった。そして、それを明確に言葉にして相手に伝えることが出来なくて……たとえ言葉にして伝えても『伝わらないこと』はわかっていただろうけど。だから、こういう回りくどい言い方しか言えなかったのかなと思う。
『得るものが何もない』のは、そう。だけど『ただ友人と友人の大切なもの(男)を共有したかった』というのがシーラの気持ちなのよね。ネルは『夫は妻のもの』という価値観しか知らないから、『友人が夫を共有したいと思っている』ということが理解できない……だろうとは思う。だから、シーラも言わないし、言えない。シーラが愛していたのはネルだし、ネルが愛していたのもシーラなのよね。……だから、ネルの夫は愛してないとシーラは正直に言った。友情よりも深い愛がシーラとネルの関係だと思う。
そして、シーラと町の人たちの関係もシーラと言う悪によって町の人たちの関係が成り立っていた……という怖ろしいオチに震えてしまう。愛と憎しみ、善と悪は表裏でどちらも必要だという物語をこんなに深く書ききってあることに心が震える。
ごちそうさまでした。
まだまだ『トニ・モリスン作品』を読むのだ。