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「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んで

2024/10/21

キャッチャ-・イン・ザ・ライ 新書 – 2006/4/1
J.D. サリンジャー (著), J.D. Salinger (原名), 村上 春樹 (翻訳)

キャッチャ-・イン・ザ・ライ

「キャッチャー・イン・ザ・ライ 作:J.D.サリンジャー 訳:村上春樹」を読んでみた。

物語の感想は『「ライ麦畑でつかまえて」を読んで』に、ほとんど書いたと思う。
ここでは、訳の比較でも……。

その前に、全体的な感想。訳ってすごいね。あの下品な訳がここまで上品になるんだなと思ってしまった。たぶん、こういう感じの言葉を話す階層なのだろうとは思うけど。下品な言葉に耐えられない人たちは村上春樹がいいのだと思う。

そして、ちょうどTwitterでも『村上春樹』が話題になっていた。ノーベル文学賞を取らなかったという話の絡みだったのだろうけど。
個人的には村上春樹は嫌いだけど、好きな人がいるのは知ってるし、あの『お綺麗な世界が好き』っていうのもわかる。私も『一文だけ抜き出して愛でる』事だったら、出来たかもしれない。物語としては蹴りたくなったとしても、『綺麗な一文』だけをみれば、惹かれる。

綺麗な言葉が好きなら村上春樹訳(新訳)。下品でもOK。世界観をがっつり味わいたいなら野崎訳(旧訳)なのかなと思う。

ここからは略して書くのです。
キャッチャー・イン・ザ・ライ=キャッチャー
ライ麦畑でつかまえて=麦畑

まず、最初の部分からかなり違う。

キャッチャー『今から君に話そうとしているのはただ、去年のクリスマス前後に僕の身に起こったとんでもないどたばた・・・・についてだよ。それは僕の具合がけっこうまずくなって、療養のためにここに送られてくる直前におこったことなんだけど、実を言えばDBにだってその程度の話しかいてないんだ。』5p
麦畑『僕はただ、去年のクリスマスの頃にへたばっちゃってさ、西部のこの町なんかに来て静養しなきゃならなくなったんだけど、その直前に、いろんなイカレタことを経験した、その話をしようと思うだけなんだ。つまり、D・Bに話したことの焼き直しさ。』7p

『イカレタこと』が『どたばた』になってるだけで、主人公が振り回されている感じがするなと思った。『イカレタこと』だと主人公が自分でおかしなことをしてる感じ。最初から雰囲気というか、主人公の『いい子加減』がレベルアップしている気がする。
そして、物語としては主人公がイカレテいるので、『どたばた=周囲に振り回される』ではないと思う。

キャッチャー『アックリーはまったく童貞の見本みたいなやつだった。女の子にまともに触った事すらないはずだ。』65p
麦畑『あいつが童貞でなくて、誰が童貞なもんか。おいじり・・・・だってやったことがあるかどうかあやしいもんだ。』57p

これは……原作がどうなってるんだろうと思ってしまった。『おいじり』だと、自分のものを触るという意味かなと思ったけど、そうではなくて『女の子のものを触る』という意味の文章だったのだろうか。この『おいじり』も女の子をいじるという意味だったの?
そして、『童貞の見本』って何だ? 私は意味が分からないなと思ってしまった。

キャッチャー『二年ほど前だけど、僕はある女の子とつきあっていた。これがまた僕に輪をかけて下劣な子でね、いやらしいことが根っから好きだったんだよ!でも、しばらくのあいだ僕らはずいぶん楽しんだ。あっちの方面でね。』105p
麦畑『二年ばかし前につき合ったある女の子なんか、僕よりいやらしかったからね。いやあ、いやらしかったな、彼女!ところが、その女の子のおかげで、僕は、しばらくの間、とてもおもしろく過ごしたんだからな、いやらしいほうの意味でだけど。』91p

この辺りがさすが村上春樹だなと思った。女の子の印象が文章一つでがらりと変わる。キャッチャーは『女の子は下劣だった』と貶めている。さらに『根っから好きだった』ことにもされている。なのに『でも~僕らは楽しんだ』と、嫌いではなかったという程度の話になっている。これ、主人公の『自分はまだマシな方だ。自分はいやらしいことが好きな人間ではない』って言いたいだけに見えるので気持ち悪い。

麦畑は『女の子はいやらしかった』といいながら『おかげで~よかった』というような文章に繋がってる。これ肉体美が素晴らしかった~みたいな文章にも見えるから不思議だ。それに主人公は『女の子に感謝』までしている。つまり、主人公は『自分もこれを思いっきり楽しんだ。ありがとう』という文章なわけで、読んでいてそこまで気持ち悪さを感じない。


キャッチャー『二、三人のヒモっぽい男たちと、ニ、三人の娼婦っぽいブロンドたちをべつにすれば、ロビーはおおむねがらんとしていた。』116p
麦畑『男娼みたいな男がニ、三人と、淫売みたいな女がニ、三人いるだけで、ロビーはほとんどからっぽだった。』100p

これ、最初、あれ?っと思った。男娼とヒモではかなり意味合いが変わってくる。でも、おそらくここは『ヒモ』の方が正しいのかなと思う。つまり、ロビーにいたのは娼婦とそのポン引き(ヒモ)なのだろうなと。麦畑だけ読んでいたら、『男娼』として受け取っていてここはそういう場所なのかなと思ってしまうところだった。
この後、エレベーターボーイに女を勧められるシーンがあるけど、つまりその伏線がここにあったのかなと思う。


キャッチャー『つまりさ、だいたいの女の子って頭がよくないんだ。しばらくネッキングをしているとさ、彼女たちがみんな頭がぼおっとしちまっていることがわかる。女の子って情熱的に盛り上がると、もうまともにものが考えられないんだよ。よくわかんないけどさ。で、やめてって言われると、僕はつい正直にやめちまうんだ。』155p
麦畑『つまり、女の子って、たいていは、頭が鈍いかなんかするだろう。しばらく抱き合っているうちに、見てると、相手の理性を失ってゆくのがはっきりわかるんだよ。本当に燃えたときの女の子をみてみたまえ、理性なんかなくしちまってるから。僕にはわかんないんだな。相手がやめろと言うから、僕はやめるんだ。』132p

これもかなり印象の違う文章になっている。
キャッチャーは『女の子の頭がよくない』『まともにものが考えられない』となってる。これ、ただの馬鹿って言いたいのかなと一瞬思ってしまう。
麦畑は『女の子は頭が鈍い』『理性を失ってゆく』と、ここまで下品な言葉がどこにいったのか冷静に女の子を見ていることがわかるし、馬鹿にしてるわけではなくて状態を示している。
受け取り方に困るのはキャッチャーの『よくわかんないけどさ』という文章。これ、「自分には女の子のことはわからないけど」という投げやりな言葉に見えてしまう。そして、その後に「僕は正直にやめちまうんだ」と自分の正直さをアピールしてるのも気持ち悪い。女の子のことはバカにして、自分のことは正直だというのズルいと思う。
麦畑だと『女の子の理性がないから。僕にはわからない』となってる。つまり会話が成り立ってないけど、「やめて」が聞こえたからやめたと。
こういう誠実さと女の子を貶めないし、自分を上げたりもしない文章はそのまま読める。

キャッチャー『僕のひとつの問題点は自分がネッキングをしている相手のことを、それが誰であれ、けっこう知性的だと考えがちなことなんだよ。そんなのってぜんぜん関連性のないことなんだけどさ、とにかく僕はいつもついついそう考えちゃうんだ。』176p
麦畑『僕の一大欠点は、自分がいちゃつく相手の子を、みんなとても頭がいいと、いつだって思っちまうんだ。それとこれとは何の関係もないことなのに、やはり僕は今でもそう思っちまうんだな。』149p

キャッチャーは『問題点』『知性的』で麦畑は『一大欠点』『頭がいい』……。この辺りは時代かな。「問題点」「知性的」の方がわかりやすいなと思う。
ところで、ネッキングって何?と思って麦畑を見直した。これ、ネッキングで通じるの?最初見た時、ゲームか何かの名前かなと思ってしまって、意味が全くわからなかった。英語そのままのカタカナ訳は意味が分からないから困る。
『いちゃつく』の方がわかりやすい。

キャッチャー『英語を教えているという尼さんは、ある種の本を授業で読んで――べつに性的な場面がいっぱい出てくる本じゃなくても、恋人たちなんかが登場するような本でいいわけだけど――尼さんとしていったいどんなふうに感じるんだろうな、と。』183p
麦畑『僕のすぐ隣の、英語を教えてる尼さんがだね、英語の授業のためにある種の本を読むときに、自分が尼さんなだけに、どんなことを考えるだろうかと思ってね。本の中には、必ずしもセクシーなことがいっぱい出ていなくてもだよ、恋人とかなんとか、そんなのが出て来るのがあるじゃないか。』155-154p

キャッチャーは『性的』麦畑は『セクシー』
これも時代なのかな。個人的には『セクシー』の言葉の方が好きだけど、今の時代だと『性的』になるのかなとも思う。原文はセクシーなのかな?
でも、セクシーだと女性の身体についてのあれこれかなという印象で、性的になるとセックスに関するシーンという印象をもってしまって若干、意味が違うような……いや。これは私の個人的印象の話かもしれないけど。


キャッチャー『その子の歌っているのは、「ライ麦畑をやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら」という唄だった。(略)そして、子どもは歩道の縁に沿って歩きながら、「ライ麦畑をやってくる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら」と歌い続けていた。』192p
麦畑『歌ってるのは、あの「ライ麦畑でつかまえて」っていう、あの歌なんだ。(略)そして子供は「ライ麦畑でつかまえて」って歌いながら、縁石のすぐそばを歩いて行く。』163p
キャッチャー『「あの唄は知ってるだろう。『誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら』っていうやつ。僕はつまりね――」
「『誰かさんが誰かさんとライ麦畑で出会ったら』っていうのよ!」とフィービーは言った。』286p
麦畑『「君、あの歌知ってるだろう『ライ麦畑でつかまえて』っていうの。僕のなりたい――」
「それは『ライ麦畑で会うならば』っていうのよ!」とフィービーが言った。」』242p


本のタイトルに関わる部分。少し訳が違う。
キャッチャーは『つかまえたら』麦畑は『つかまえて』
たった二文字の差だけど、これだけで印象が変わって来る。旧訳のタイトルにもなっているのに、こんなに違いが出るんだなと思ってしまった。好みでいいのかもしれないけど、個人的には『つまかえて』が好きだし、わかりやすい。
『出会ったら』と『会うならば』も印象が違ってくる。でも、ここは『出会ったら』の訳の方が好き。どっちが原文に近い訳なのだろう。


ところで、この妹のフィービーを主人公は賢いと言っている。なのに、綴りや単語の間違いがあるとキャッチャーでは注意文が挟まっている。
『彼女に対するホールデンの評価が高すぎるということなのだろうか、そのあたりはちょっとした謎だ。』274p
この文章はさすがに蛇足な気がした。翻訳者の感想は正直、要らない。書くなら、あとがきに入れてほしい。今まで読んだ翻訳者のあとがきでは分からないことは原作者にとことん聞くみたいな感じの人が多かった気がする。村上春樹は原作者にその謎を聞いて、答えをもらわなかったのかと逆に不思議に思うのだけど、どうなのだろう。

キャッチャー『そのあとでちょっとしたことが持ち上がったんだ。できることならこんな話はしたくもないんだけどさ。
 僕は目を覚ました。何時だったとか、そういうことはわからないけど、とにかくぱっと目を覚ましたんだ。僕の頭の上に何かが置かれていた。男の手だった。やれやれ、ほんとに肝が縮んだよ。それが何かって言うとさ、実にミスタ・アントリーニの手なんだ。で、彼が何をしてたかっていうとさ、カウチのすぐとなりの床に腰を下ろしているんだよ。真っ暗闇の中でね。そして、僕の頭に触るっていうか、軽くなでたりしてるんだ。まったくもう、僕は間違いなく千フィートは飛び上がったと思うな。』318p
麦畑『それからある事が起こったんだよ。そいつは口にするのもいやなことなんだ。
 僕はいきなり目をさました。何時かも何もわからなかったけど、とにかく目をさましたんだ。頭に何か、人間の手みたいなものがさわったような気がしたんだよ。いやあ、驚いたね、僕はほんとに肝をつぶしたな。それが実は、アントリーニ先生の手だったんだよ。先生が何をしていたかというと、真っ暗な中で、寝椅子のすぐそばの床の上に坐って、僕の頭を、いじるっていうか、撫でるっていうか、そんなようなことをしてたんだ。いやあ、ほんとに僕は、一千フィートばかりも飛び上がったな。』269p

長くなってしまったけど、性暴力シーンの違い。
キャッチャーは『ちょっとしたこと』になり、麦畑は『口にするのもいやなこと』と嫌悪感を書いている。これ、たぶんキャッチャーの方は『ちょっとした勘違い』と思って訳してあるのかなと思う。『できることなら、話したくない』というのは勘違いした自分が恥ずかしくて人に話したくない……という意味なのかなと。言葉が全体的に軽い。主人公がどんなに嫌だったかが伝わらない。
逆に麦畑は出だしからゾクゾクする。『嫌な事』があったと先に出してるから、『嫌な事』として書いてある。だから「いじるっていうか」という訳が入っている。キャッチャーだとここは「触る」になってる。これも軽い気がする。
麦畑の訳での『いやあ、驚いたね』は硬直した思考に正常バイアスをかけようと必死になってる状態のように思えるのに、キャッチャーの『やれやれ、ほんとに肝が縮んだよ』は大したことないけど驚いちゃった……程度のものにしか見えない。

訳し方しだいで、性暴力シーンがただの勘違いシーンに変わってしまう。

キャッチャー『誰かが壁に「ファック・ユー」って書いていたんだ。』332p
麦畑『誰かが壁に「オマンコシヨウ」って書いてあるんだな。』281p

この辺りの訳はかなり難しいんだろうなと思う。でも、個人的には「オマンコシヨウ」の方がわかりやすくて好き。主人公が嫌悪する理由もそういう意味だからなんだなと分かりやすい。
「ファック・ユー」って頭では『人を馬鹿にする言葉』だとわかっていても、具体的な意味が日本にいると分からないから、英語と言うだけでかっこいいような気がする。
ついでに「ファック・ユー」の意味を小学校高学年の子供に聞いてみたら、「殺してやる」だそうで……。今の子、どこでこの言葉を知るの?いや。映画とかドラマでもカジュアルに出て来るし、YouTubeで耳にしてもおかしくはないのかな。
そして、「殺してやる」はまだ、大人しい可愛い訳し方な気もする。そんなわけで、「ファック・ユー」は殺してやるという意味で読む人もいるのかなと思った。
そうなると主人公がこれだけその言葉を嫌悪している意味が変わりそう。『相手の尊厳を奪う』意味も含んだ、本当に下品で卑劣な言葉……っていう雰囲気が伝わらないのでは?


というわけで、読み切った。読み比べた。
改めて、村上春樹作品、嫌いだなぁと再確認してしまった。

村上春樹は綺麗なのはいいけど、綺麗すぎて性暴力シーンも消されてしまう。なぜ、この本を改めて翻訳したのだろう。性暴力シーンを消したら、「思春期の子供の我儘物語」になってしまう。
この物語は「性暴力も大したことない事にされる社会への苛立ち」も含んでると思うんだけど。だから、「オマンコシヨウ」の落書すら許せないわけで……単に上流の子どもが下品で下劣な言葉が嫌いだからっていうだけじゃないと思う。


読み比べは面白かった。
でも、それだけ。

お疲れ私……な気分。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』