タール・ベイビー 単行本 – 1995/2/1 トニ・モリスン (著), 藤本 和子 (著), Toni Morrison (著)
「タール・ベイビー 作:トニ・モリスン 訳:藤本和子」を読んでみた。
今まで読んだトニ・モリスンの本と少し毛色が違うなと思った。今までは祖父母の代の話も混ざって、時間軸があちこちに飛んでいて、大変だったけど、それと比べると時間はだいたい一定方向に流れている。いきなり、祖父母の話になったということはないけど、登場人物の視点が気が付いたら変わっているので、『誰だコレ?』というのはいつもと変わらない。
そして、今回読んだ本は『白人の館で働いている黒人』の話だった。今までは『白人社会と黒人の対立』というようなものだったけど、この物語では『白人主人』と『黒人使用人』という分かりやすい対立になっている。黒人の傍にいる白人たちが差別に全く気がついていないことが、生々しかった。そして、ここに女性差別も絡んでくる。
物語は、白人の実業家ヴァレリアン・ストリートとその妻が暮らす<十字架館>が舞台。
ここにウィリアム・グリーンことサンという黒人男が紛れ込む。ヴァレリアンは妻マーガレットの嫌がらせと混乱によってサムを館に滞在させる。館の使用人シドニー(夫:執事)とオンディーン(妻:台所女)は不快感を示すが、使用人たちの姪であるジャディーンは叔父叔母と主人の妻であるマーガレットを落ち着かせようとする。
クリスマス前に起こったその事件はクリスマスに混乱が起こり、皆がそれぞれ不満を爆発させる。そして、サンとジャディーンは十字架館を出ていく。二人で暮らそうとしたのだが、サンとジャディーンはうまくいかない。ジャディーンは、サンを置いて一人でパリへ行ってしまう。サンはジャディーンを追って十字架館へ向かう。
『十字架館』という舞台から出ることが少ないので、ここはどこ??と考える必要はほとんどない。ジャズのような心象描写も少なく、物語としてはストレートで読みやすい。
ただ、最初のシーンは意味が分からなかった。サンが出てきて、これはサンのシーンだったのかと分かった。
そして、その姿が全く出てこないのに物語の重要人物ストリート夫婦の一人息子『マイケル』。キャラたちの会話に頻繁に出てくるし、物語の鍵にもなってるのに、姿を現さなかった。最後まで出てくるのを期待して読んでしまったけど、これは出てこない方が物語を語るのに最適だったという事なのかな。
気になった部分。
『ホモの飴玉をクロンボに売ったって儲かりっこないからね』52-53p
現代では差別用語だけど、時代を考えるとそういうの当たり前だったんだろうなぁと。それにしても……『赤と白のガムドロップ』というだけで、そんな風に言われる時代なのかとも思う。甘くて赤くて白いのはホモ?赤が女で、白が男?みたいな意味なのだろうか。それとも単に『甘い菓子』だからそう言われてるだけ?
『ヴァレリアンは、使用人とは指導すべき相手であって交わるべき相手ではないといってやめさせた。』61p
妻のマーガレットがオンディーンと親しくなり、オンディーンがマーガレットにパイの皮の作り方を教えてあげようとしった反応。
無意識の差別ってこれだよなぁと思う。
ヴァレリアンにとっては『問題は彼女の無知と出自だった。』62p
この彼女はオンディーンのこと。台所女の無知と出自が問題ってそれを差別と言うんだよ。でも、それをしっかり書いているのはすごいと思った。そう言って白人たちは黒人差別を正当化してきたというのがよくわかる言葉。
『白人のアメリカ人のことを忘れていた。彼らの役割は? 想像もつかない。』114p
洗濯女テレーズと雑役夫レギオンが十字架館にサンが入り込んだことを話し合い、テレーズがあれこれと想像する。レギオンは『白人の主人の事を忘れていたな』と指摘する。テレーズの妄想は黒人たち3人(シドニー・オンディーン・ジャディーン)の事しか話に出てこなかった。レギオンの指摘にテレーズは考えてみるけど『想像もつかない』それほどに、白人主人が遠くて姿を見ることも少ないという事。テレーズはオンディーンから用事をもらってるので、白人主人たちとの接触がほとんどない。白人たちは黒人使用人たちの事を無に等しく思ってるのと同じくらいに、黒人たちも白人の事を考えに入れることが難しいという事がここからわかる。接触がない人間ってなんか不気味……なのだろうな。学校の校長みたいな感じかな。と思った。先生と言われて真っ先に校長は出てこない。真っ先に出てくるのは『担任の先生』というようなあの感じ。
『「きんたまさ。なめてやったきんたまさ。あれほどの黄金を手に入れ、映画に出たりするためにさ。それとも、まんこか? モデルの場合は、きんたまよりまんこだな』123p
サンがジャディーンがモデルをやっていると知って聞いた言葉。
ド直球のセクハラ。現代でこれやったら、社会的にアウト。でもこの時代なので、これはあり……なわけではなくて、ジャディーンは都会の女性なのでしっかりと怒っている。そして、これはサンの教養・教育の無さも表してるシーンなので、現代的な『セクハラ』とも意味が違う。さすがにこの言葉は下品すぎるけど、この先もそういう下品な言葉がチラホラ……。白人の主人とその使用人たちの言葉が洗練されてて、こういう下品なキャラがサンだけなの対照的でわかりやすい。
『「ほんとの話かい、アメリカの女たちは子宮に手を突っ込んで、爪で赤んぼうを殺すというのは?」
(略)
以前にはよく、アメリカの病院で働くことがどんなふうだったかを話してやったものだと、サンに説明した。ただの妊娠中絶掻爬について。子宮を掻き、こするのだ。』153p
テレーズ(洗濯女)がサンがアメリカにいたというので聞いた言葉。十字架館はカリブ海の小島なので、アメリカではない。十字架館の白人主人はアメリカ人。使用人たちはハイチの人たちが多い。
ギデオンがアメリカの病院で働いたことがあって、いろんな話をしたらしい。
掻爬法。今も日本に残っている中絶法だけど、現代においては『非人道的』としてやめる流れなんだよね。そして、テレーズは高齢女性なのでそれらを嫌っているとなっている。詳しくは書かれてないけど、『神様が決めるもの』『自然に任せるもの』みたいな感覚なのかな。
『金ののべ棒を渡せば、医者が機械に入れてくれて、あっという間に、男から女に、女から男に変わる事だってできる。陰茎と乳房をふたつながらつけた者がめずらしくもない奇妙でもない国。』153p
テレーズがアメリカについて思っていることを書いてあるシーン。
さすがに機械で性別が変わるのは現代でも無理では?と思う。でも、陰茎と乳房はあるね。この時代ですでに珍しくなかった?年代いつだっけ? 今までの作品は頻繁に年代が出てたけど、この作品はわからない。1980年ぐらい?アメリカへの偏見・皮肉も含まれてると思うけど、『そう言う人たちがいる』という事が知れ渡っている時代だったってことなのかと思った。
『あたかも人の子でないかのように、誰もがギデオンを雑役夫(ヤードマン)と呼ぶことが気にかかった。』162p
サンが十字架館の人に持った疑問。これは外部のサンだからそう思えたのだと思う。中にいるとこれが当たり前で気が付かない。全ての雑役夫はヤードマンで洗濯女はメアリ―だと思い込んでいるのでの名前を覚えてないし、名前があることにも気がついていない。そしてこれは、黒人であるシドニー達でさえも全く考えに入っていない。黒人の中でも格差と差別があることがわかる。
『「白人と黒人は一緒に食事をするべきではない、ということだ」』211p
クリスマスパーティーは天気が悪く招待客は一人も来れないことがわかったので、ヴァレリアンはシドニー達を招待して食事をすることにしたが、シドニーはサンがその場にいることを不満に思っていた。ふとした会話から皮肉を言い険悪なムードになり、さらに雑役夫と洗濯女をヴァレリアンが勝手にクビにしていたことにオンディーンの不満が爆発してしまう。
台所はマーガレットが料理に使いメチャクチャにしていた不満も加わっていき、オンディーンは「マーガレットがマイケルを虐待していた」ことを吐き出してしまう。
場は凍り付き。ジャディーンも途方に暮れ、「皆、どうしちゃったのかしら」とサンに呟いた返事が上記のセリフ。
的確で明確で、それなのよね。みんなそれぞれ、小さな不満と小さな差別を見ないようになかったことにするようにしていたのに、食事をして多少のアルコールも入ってたことで全部が壊れるくらいの大ごとになってしまった。全く違う世界にいたら、『違う』と思って飲み込めることが、同じテーブルにつくことで『同じ』だと思って飲み込めなくなるんだと思う。つまり、差別の一歩は『お前はこのテーブルに着く資格がない』と言い放つことなのかなとも思う。女性差別もそれだよね。
『その最初の日に、テレビを少し観たのだが、黒人の顔をして黒人の役を演じている白い顔の黒人たちに彼はいらだった。』217p
一瞬意味がわからなかったけど、黒人たちにも色の濃淡があってそれによってランクみたいなものを黒人たち自身が感じてるらしい……という事がこれまでの作品でもわかった。なので、『白っぽい肌をした黒人(混血)』が黒人役になっていることで、『黒い黒人(純血?)』はテレビでは求められていないことにサンは苛立っているのかなと。
ジャディーンと逃げた後の話なので、暗にジャディーン(白い肌の黒人)に苛立っているとも読める。こういう二重の意味がありそうだなと思えるの好き。
『保護に対する並はずれた子どもの欲求をどれほど憎んだか、それを語る言葉すらなかった――眠っている間にも誰かがそばにいてくれる、目覚めた時にも、誰かがいてくれる、空腹になれば、なぜか食べものが魔法のように与えられるという赤ん坊の確信の犯罪的傲岸さ。』237p
マーガレットがマイケルに虐待していた理由がこれ。……育児ノイローゼだね。出産時は19歳なので若年出産とも言える。現代だとフォロー必須の親子になりそうだけど。もちろん、父親は一切育児に感知しない。オンディーンはフォローをしてたのだろうけど、使用人であり相談相手にはなれないという立場だったことがマーガレットの孤独をさらに深めたのだろうな。マーガレットに相談相手を作らせなかったヴァレリアンのせいじゃないの??と思ってしまう。ヴァレリアンはマーガレットより20くらい上なのに、産ませるだけ産ませて後は放置。
時代だとはいえ、現代的に考えたらワンオペに近く情報も足りない、相談相手もいない状態で狂わない方がおかしい。
『「わたしは三十五歳じゃなかったですよ。わたしは二十三歳だった。ほんの若い娘。あんたと同じに』242p
オンディーンとマーガレットがマイケルの虐待について話していて、マーガレットが止めてくれたらよかったという話から、オンディーンは三十五歳くらいだとマーガレットが思っていたことが発覚する。そこでオンディーンが返した言葉。
長く一緒にいて、相手の年齢を知らないのも使用人で興味がなかったから……というのもありそう。一緒に子育てをしていながら、こういうのじわじわ来る。無言の差別がここにもあそこにもあるって掘り出すのえぐすぎて好き。
『「わしにもわからん。昔はこんなじゃなかった。昔は人々は人々の面倒を見たものだった。近頃では、年寄りの黒人は、若い者にはきっと厄介なんだろうな』284p
現代でもそう言ってるよ。うちの親が。黒人ではないけど、日本人も同じ……と思いながら読んでしまった。普遍的なことなのかもしれないけど、『多数の人が若くて死ぬ時代』と『多数の人が長くまで生きてしまう時代』は価値観が違う。あと『移動の自由化』も関わってくると思うけど。でも、人はたいてい『自分の面倒を自分でみられる程度で生きたい』とも思ってると思うんだよな。医療がほとんどない地域では『自分で生活が出来ないなら治療しない(死を待つだけ。痛みをとるだけ)』という基準があるというのを読んで衝撃だったけど。それは『家族の面倒を見る事になったら、一族が破産する=生きていけない状態になる』というくらいの貧困層が住む場所だからという事も書いてあって、それはそれで幸せかもなと思った。そういう地域は子どもの死亡率も高いけど、それだけ『大人になる事の奇跡』も実感できそう。
訳者解説にて、トニ・モリスンが語っていた部分から。
『記号として使われる黒人は捏造されたもので、現実とは関りがない。それはきまって白人の主人公が自己について内省する過程に現れる。(略)夢みられている「黒さ」は夢見る人々そのものを表現していて、「黒い人々」は代理の自己として利用されているにすぎない。』308p
すごい。当事者性のない人間がマイノリティを書いた時に浮かび上がるのはこれなのだろうなと思う。だからこそそれは、丁寧に紐解き本当に『そう』でなければいけないのか。他の表現はないのかを問わないといけないんだろうな。当事者が常に当事者表現を利用しないとは言えないけど、少なくとも『当事者性のない人間』よりは捏造は小さくなるのではないかなと思う。
この作品のすごいのは黒人間の『差別』がこれでもかと書かれてる。サンのような粗野な黒人とジャディーンのような都会的な黒人がわかりやすい対比ではあるけど、他にも黒人の間にある差別が浮かび上がるシーンは多い。そして、白人たちも男女差別をこれでもかと書いてあるのがエグい。同じ人種だからと言って同じではない。
タイトルの『タール・ベイビー』については作中に説明が出てこない。最後の解説で詳しく書いてある。ウサギを捕まえるためにタールのついた人形を使い、タールにくっついたウサギを食べるつもりだった狐はウサギに「藪に自分を入れるな」と言われて、藪に放り込んでしまう。藪の棘を使ってウサギは逃げていく。という物語。
解説ではサンとジャディーンのことでは?となってたけど、マーガレットとマイケルも同じような形になってると思う。ただ、マイケル(兎)はすでに逃げていて、その過程が一切わからない不気味さがある。もしかして、マイケルという存在はいないのでは??と思いながら読んだけど、最後まで『いる』として書かれていた。どんな存在なの? 少しでいいから、一言でいいからキャラとして出てきてほしかった。でも、でてきたらたぶん、狐に食われるから『逃げ切る』しかないんだろうな。
これでもかといろんなものが詰めてあって、おもしろかった。
ごちそうさまでした。