言霊の幸う国で (単行本 ) 単行本 – 2024/6/27 李 琴峰 (著)
「言霊の幸う国で 作:李琴峰」を読んでみた。
いろいろと話題の本だったので手に取ってみたけど、一章を読んで放り投げたくなってしまった。
感想が約二万文字というありえない文字数になってしまったので、読み流しでどうぞ。
事前情報としてこの本の祝詞部分は無断使用・改変の訴えが出ていることを書いておく。
詳しくは下記リンク先。たまたま目にしただけです。
『神道LGBTQ+連絡会 筑摩書房発行の李琴峰氏著『言霊の幸う国で』における祝詞等の無断使用・改変について』
私はLGBTの情報は得ているので、この本に関しては最初から懐疑的立場だと書いておく。私の感想も『偏っている』と思ってもらっていい。ただ、全ての情報を追いかけてるわけではないので、抜けてる情報は多々ある。こう言うセンシティブな話題は「こういうことも知らないの?」という事をいう人が出てくるけど、「あなたが知ってる情報を全ての人が知っているわけではない」とだけ返しておきたい。(と、事前に書いておいたら、この本自体が『こういう事も知らないの?』という本だった。)
さて、さっそく感想を……と言いたいけれど、もう一つ書いておきたい。
最後の注意書きに『作中の主人公は、著者本人ではなく、作中に登場する実名の人物も、実在の人間と完全に重なるわけではありません。ただし、作中で批判対象として実名で引用したテキストは、すべて実在のものです。』
……小説を個人批判の道具にするな。と思ってしまった。『作中の主人公』を使って、実在人物の批判するのはやってはいけない事だと思う。twitterで未成年者がこの作品の感想で『こんな批判をしていいんだって思った。私もそうしたい』というようなことを書いているのを見かけた。個人批判はリスクが高すぎるのでやめた方がいい。自分の評判を落とすだけ。この作者さんは芥川賞の権威を持っているから書いているだけです。
やっと感想を書くことにする。
第一章 栄光
芥川賞受賞を待ち、ついに受賞して授賞式に出る。
『もし男性だったら、今年は厄年でなくなる(略)男だったらよかったのになどと、Lはこれまでの人生において一度も思ったことがないし、今でももちろん思わない。』15p
さて、さっそくネタバレを書いて申し訳ないのだけど、私は事前情報としてこの主人公がトランスジェンダーなことを知っている。これが伏線になってるのかなと思った。
『二年前、作家の綿矢りさが『生のみ生のままで』という女性同士の恋愛小説を刊行した際、ハフポスト日本語版の取材を受けた。「”恋に落ちた相手が同性”に葛藤しない主人公。綿矢りさが挑む日本文学のアップデート」というタイトルの(略)そのアップデートに挑んでいると表明するが、そこで引き合いに出されたのは三島由紀夫や谷崎潤一郎だった。』25p
実はこの「言霊~」の本を手に取る前は「生のみ~」を読むつもりだった。けれど、同じ棚から少し視線を上げるとこの分厚い「言霊~」の本があって、こっちを手に取った。
なので、読むつもりだった本への批判なのかと思ってしまった。ただ、気持ちはわからなくもない。三島や谷崎を引き合いに出してくるのはありえない……という話は、フェミニストたちの話を追っていると時々入ってくる。私自身は、その時代はそういうものだったし仕方がない部分もあるんだろうなとは思う。ただ、これを未来に引きずっていくのはごめんだ。そういう意味では、気持ちはわかる。
その後、そんな作者の作品より自分の方がもっといいものを書いていると、自分の作品(作中での作品名は少し変えてあるけど、知ってる人が読めばこの作者のあの作品と言うことが分かる)の紹介までしてある。自作の紹介がメインなのかなと勘繰ってしまった。
記事は今は消えてるようだけど、代わりにこういうインタビューを見つけた。
「生のみ生のままで インタビュー」
どんな作家が好きなのかは人それぞれなので、三島や谷崎が好きでもそれはそれでいい。そして、こちらのインタビューを見る限り、描写が好きなんだなぁと思う。そういうのって個人の感性なので他人がどうこういう物ではないような気もする。
第二章 暗影
昔の恋人がネット上でストーカーになる。
『「いつかあなたの物語を書かせて」
Lは女にそう言った。本当は他者の痛みなんて分かるはずもないのに、文学を志していた青臭いLは、女の痛みを書き残し、伝えるのが自分の仕事だという幼く愚かな使命感を抱いていた。』38p
自分で自分の傷を書くのは癒しの効果もあるけど、他人の痛みは他人のものだから、「書かせて」と言って奪うのはやめた方がいい。
昔の恋人まで批判するんだと思ってしまった。書き方がいい感じにえぐくて主人公の腹黒さが透けているのが耐えられないなと思って読んだ。
『Lと小雪はどちらも長女だからか、二人とも甘え上手な人間ではない。』44p
鬼滅の『長男だから、たえられる』を思い出してしまった。
『甘え上手ではない』と『長女』の間に因果関係はない。長女だから甘え上手ではないという偏見をさらっと書くのどうなのかなと思ってしまった。
『普通の日本人作家だったら、こんな困りごとはきっとなかっただろう。』49p
普通の日本人作家は、海外に移住しないし、外国籍の恋人を作らないという偏見を助長する表現になりそうだけど。その後に自分は外国籍だし、海外でも出版してる越境作家だと書いてある。つまり『自分は特殊』と言いたいために『普通の日本人作家だったら~』と言い出してるの??と思ってしまった。
こういう批判・偏見と自慢をセットで入れてくるの、勘弁してほしい。読んでいてイライラしてしまう。自慢したいなら堂々と自慢だけして。
厄払いの断章 その一「崩壊の深夜」
第三章 虚像
ネット上での批判にさらされ、台湾で記事になる。
話はこの小説とは外れるけど、芥川賞ではなくても『過去のツイート掘り』はあるので小説投稿する人たちは注意。私が知っているのはネット上の賞だったけど、5年近く前のツイートを掘り起こして受賞者が批判にさらされて受賞辞退させられた例がある。ネットの発信は要注意です。最終選考通過しそうだと思った時点で怪しい投稿は削除しておいた方がいい。もしくは、普段からSNSは無難な投稿だけにしておいたほうがいい。露骨な差別発言や危ない発言は要注意。
『ベッドに戻って横たわり、Lは反省した。(略)実際、投稿当時はネトウヨたちからの反応は皆無に近かった。誰もLの発言など気にしてはいなかった。なのに今になって、Lが脚光を浴びるやいなや、そんな一年半も前の古い投稿を掘り起こして揚げ足を取ろうとする。』75-76p
過去の投稿が原因でアカウントロックされたというシーン。反省したとあるけど、言い訳で終わる。『反省』したくないなら、しないままでいいのにと思ってしまった。気軽に反省するよりも『自分は間違ってない』で通したほうがかっこいいと思う。
その後は台湾からもこの件で記事にされてしまったというシーンで台湾のメディア情報が書いてある。……『リベラル紙だから『武漢肺炎』と書いてある』っていうのも、どうなのかなと思ってしまった。差別推奨してる紙面になってしまうような。中国に批判的なことを表したいなら別の部分を抜き出した方がいい。世界的な傾向として感染症に地名をつけるのは避ける流れになってる。差別を煽ってしまうので、中国批判だとしてもやめた方がいいよねって話だと思うけど。
厄払いの断章 その二「生き延びるための奇跡」
贈呈式のスピーチ……なのかな。
『ここで描かれているのは従来の作品と共通した問題意識、つまりは言語や国家、文化や歴史に対する思索、更には現代社会や政治に対する危機感や、カテゴライズされることの苦しみ、などと言えると思います。』93p
自作品のテーマについて書いてある。たぶんこれは現実の作品に即した説明のはずだよね。興味あるのでいくつか読んでみようかなと思う。
第四章 狭間
年明けのお参りとネット上のトラブルがひとつ解決。
『ひどい書店は小説の内容やLの経歴を確かめもせず、Lの名前だけで判断し、「外国文学」や「翻訳小説」の棚に差した。』97p
どんな書店なのか分からないけど、たぶん書店側も大量の書籍を扱っていて確認しきれないとかそういう事なのでは?大量の作品を扱ってるんだから、確認しきれないのもしょうがないんじゃないかなと思ったし、むしろ本があるだけ売れてるんだろうなと思う。売れない本はさっさと返されると聞くけど。
『『生のみ生のままで』は女性同士の恋愛を描いているのに、作中に「レズビアン」という言葉が一度も出てこないということも、そうした「わたくし」と「おおやけ」との断絶に関係していると言えるのではないか。「レズビアン」というのは、アイデンティティを指す言葉だ。アイデンティティはそれ自体が政治性を帯びる。』102p
……また出てくるんだと思ってしまった。
こういうのはその作家が好きに書けばいいので、一作品を取り上げて『これは政治性を無視してる』みたいなことを言っても、それ書きたきゃ自分でやれと言われて終わりの様な気がする。それとも「一緒に書こう」というラブレターとしてこの文章が書かれてるのだろうか?
批判に見せかけて、「大好きだよ」というのはよくあるパターンだけど……わかりづらい。うっかりそのまま批判なのかなと思って読んでしまう所だった。綿矢さんへのファンレターかな。
『日本で暮らし始めて八年、部屋探しといった限られた場面を除き、Lは外国人差別というものに直面したことがほとんどない。日本は排外的な国だという人は多いし、実際、外国語で会話しているといきなり知らない人から「ここは日本だから日本語話せよ」と怒鳴られたり、警察から狙い撃ちで職質されたり、入国管理局収容中に虐待に遭って命を落としたりと言った、他の人が経験した外国人差別のエピソードも時々耳にするが、幸運なことにLは体験したことがない。(略)Lから見れば、(略)日本は外国人にとって比較的暮らしやすい国とすら言える。』107p
差別エピソードを並べ立てて、結論が『外国人にとって暮らしやすい』? 仮にそうだとしても『殺されないからこの国いいよね~』って最底辺と比べていいと言われても、嬉しくない。もっといい国があるから、意欲があって言語の壁さえ越えられるなら日本以外の国がおススメだよって私なら言ってしまう。
厄払いの断章 その三「判決」
同性婚訴訟の判決文の一部がそのまま書かれている。
第五章 傲骨
ストーカーの恐喝や現実での男性からの被害をネット上の誹謗中傷の一人がしてきたのかもと不安になる。
『現実のレスボス島の島民はレズビアンを歓迎しないどころか、「レズビアン」を「女性同性愛者」の意味で使わないでほしいという裁判を起こしたことすらあることを、Lは知っている。この世界に楽園はない。』138-139p
レズビアンの語源はレスボス島の女性詩人サッポーが少女への愛をうたう詩をたくさん作った事からという話からこういう文章に続く。
これ少し調べたら元々は『ビッチ』の意味だったと下記ツイートを見つけた。
https://x.com/s_i_s_i_n/status/467312732920758272
藤村シシン@s_i_s_i_n
ちなみに、古代ギリシャで「このレズビアン(=レスボス島の女)が!」という侮蔑の表現は、元々「女性の同性愛者」ではなく「ビッチ」を指す。なぜなら当時同性愛は侮蔑の対象ではなかったので、「同性愛=背徳的」という先入観を持つ後世の連中が意味を取り違えたのだ、というのが最近の研究結果です。
それで、現代の住人たちが迷惑に思って訴訟するのもわからなくはない。
この話を読んで思ったのは、じゃぁ「ジャパニアン」と呼ばれる女性同性愛者の物語も成り立ちそうだなと。『ジャパニアン=女性同性愛者』として言い続けていたら、日本に住んでるだけで同性愛者として扱われる楽園になりそう。
『「なんか、甘えるみたいな口調で訊いてくるの、『ムクちゃん、ここ分からないでちゅ』みたいな」
「うわぁ」
「自分より若い女の子ならまだ可愛いから許せるけど、年上の五十代のおじさんがそれいうんだよ?」
「きもっ!引くわぁそれ!」』140p
仕事でパソコンが使えないおじさんたちが女性に使い方を訊いてくるという話の流れ。
若い女の子でも仕事でこんなこと言ってくるの気持ち悪いんだけどと思ってしまった。そして、『若い子なら許せる』と言ってるのも気持ち悪い。
この後はネット上の誹謗中傷を訴えるために法務省のインターネット人権相談窓口に行ったり、警察に行ったりしたけれど、結局そんなに役立たなかった事が書いてある。やっぱり、難しいんだな……。
厄払いの断章 その四「「反日」を一掃せよ」
とあるライターの記事への批判。宣伝にならないようにS氏にするとなってるので、ここまで名前を出して批判してきたのは宣伝のためだった事を知った。ねじれたファンレターってこういう事なのかと目から鱗が落ちた。
S氏は宣伝したくないから、名前が出てこないのね。もしかして、批判されてる人たちは事前に確認作業お願いしてあるとか、調整されてるのかな。うっかり本物の批判だと思って読んでしまってたの恥ずかしい。(追記:そうでもなさそうだ……)
第六章 兆候
ストーカーの件が一段落して、年が明けるまで。
トランスについて特定の人Pと議論(?)になっている。
きっかけは『Gold finger事件』といわれるものらしい。この件については私も見かけたことがある。トランスジェンダーが招かれていたけど、主催や運営にまで話が通っていなくてトラブルになった事件。この件は当事者が不憫だなと私は思う。けれど、主催の対応が間違ってるとも思わない。主人公は『主催の対応は間違ってる』が『話し合いで折り合いをつけるもの』という意見らしい。
でもこれ、話題になってしまっているし『主催者としてはきっぱりと表明する』しかなかったのではないかなと思う。そこまで話題になってなくて、内輪で解決できるレベルならきっぱりしなくても良かったのかもしれないけど……話題になってしまったためにここで『トランス女性も入れます』と言ってしまうと『男性』が入り込んできてしまう危険を危惧したんじゃないのかなと。
……特殊な世界っぽいから事情はよくわかんないんだけど、第三者として眺めていてそう思った。
話が変わるけど、ビアンサイトでも男性の出入りはよくあって問題視されてたのよね。今はサイトではなくてLINEに移行してるから身分証確認か声確認なのかもしれないけど。声の場合、女性でも低い人がいるので低い女性が弾かれるけど……そういう人たちは、しょうがないよねと言ってた。区別することで弾かれてしまう人がいるのも事実だけど、それは別にトランス女性だけではない。現実とは違うネットだけの関係の場合はもっとシビアな線引きがある。
なぜ、『トランス女性だけ』が弾かれてると思うのだろう。女性同士でさえビアンの世界はシビアだ。なぜなら、それだけ危険をはらんでいることを実感してるから、弾かれてしまう女性たちも、悲しいけど仕方ないと受け入れる。恋愛目的の出会いで女性は『危険が全くない』なんてことはない。
話は小説に戻る。
『例のストーカーは、トランス女性なのである。』190p
トランスジェンダーの話から、昔の恋人(現在のネットストーカー)の話に飛ぶ。昔の恋人の事をアウティングしてるけど、いいの? え。これ、昔の恋人には許可とり済み?というか、裁判した相手ってこの人じゃないの?どういうこと???疑問しかない。
厄払いの断章 その五「小さな語りのために、あるいは自由への信仰」
台湾での軍事訓練の話。
そういうものがあるのね……と思った。この話はウクライナを侵略したロシア批判へと続いている。
第七章 俯瞰
Lがトランス女性だとネット上で拡散した。
『「
昔の女性たちは常に『女性である』という事だけで、作品を『下らない』と判定する文壇男性たちに怯えていた……と思うけど。だから、男性名で作品を出版していた女性たちがいたけどね。今は逆で、『男性だと思われるかもしれない』と怯える女性作家がいることに時代を感じる。
『二〇一五年、一橋大学大学院のロースクールに通っていた学生が、ゲイであることを暴露され、大学の校舎から飛び降り自殺をして亡くなった。(略)Lを含め、日本に住んでいて、この事件を知っているLGBT当事者は一度はこう思ったに違いない――「校舎から飛び降りたのは、私だったのかもしれない」。それだけ、アウティングは当事者の声明を害し、尊厳を踏み躙る卑劣な不法行為である。』246-247p
一橋大学アウティング事件Wikipedia
概要を剃り落としすぎてて、誤解させる部分だけ書くのは卑怯だと思った。そして、この事件を知った同性愛者の中でもこれは『アウティング事件』とは認識してない人たちもいる。私もそうだ。
この事件はゲイであるAとBが友人である時から『過剰なやり取りをしてくる』という違和感をBが感じている。その後Aから告白されたBはそれを断り、Aを傷つけないように「友人として関わろう」という事を伝える。BはAと距離を取る様になり、次第に共通の友人とも関わらないようになる。BはそれでもAが関わってくることに苦悩する。そして、耐えられなくなり友人たちに告白されたことを伝えた……というのが経緯。
つまり、この事件の場合、加害者側はむしろ『自殺してしまったゲイ当事者A』の方で、アウティングをしたBではない。だから、地裁では問題視されてない。高裁でやっと問題視はされているけれど、訴え自体は棄却されている。だって、ストーカーされて苦悩してた側が、ストーカーが自殺したから加害者だと責められる……そんな馬鹿なという話だ。
活動家たちはこの事件を持ち出してアウティングはダメだというが、この事例は悪手過ぎるので出してほしくない。むしろ、これは告白を断られたら潔く諦めろ。アウティングされるぞというLGBT側への警告としての事件だと私は思う。いや。男女間でも断られたら諦めろよっていう話だけど。相手にベタベタ触ったり、あちこち誘おうとしてたのはAだから……Bは何も悪くない。
あえて言うなら、こういう同性間の告白に関する相談場所が大学にあったらいいねとは思う。……たぶん、今は設置されてると思うんだけど。
『では「シス特権」とは何か? それはつまり、トランスジェンダーであることで嘲笑されたり、侮辱されたり、攻撃されたり、差別されたり、健康状態を害されたり、生の可能性を奪われたり、暴力や犯罪の対象とされたりせずに済むという特権であり、一言でいうと、トランスフォビアのおぞましさに怯えなくて済むという特権である』249p
すごいな。それ、全部『女性であることで~~』と書き換えても当てはまりそうだけど。知ってる? 女性は暴力や犯罪の対象にされ続けてきたってこと。 ミソジニーのおぞましさに怯えて続けてきたってこと。ここに書いてあること、全部『女性だから』起きてるんだけど。そして、そう考えると『トランスジェンダー』も同じ恐怖なんだねと、やっと共通性を感じてしまった。いや。違うけど……これは、差別される側が常に感じてる事で、『特権』を得ているのは本当にごくごく限られた人たち。『白人男性、健常者』が世界が一番の特権を得ている。日本では『日本人男性、健常者』だけど。ここにもう少し付け加えるなら『東京生まれで在住』も付いてくる。それ以外は大なり小なりの差はあれど、差別される側。
厄払いの断章 その六「告訴状」
第八章 因果
ネット上でアウティングしてきた相手を訴える。恋人にもカミングアウトをする。
『Lは家庭内暴力の被害者だった。』257p
それは「しつけ」だったから家庭内暴力として認識できなかったとなってるけど……それは『児童虐待』っていうんだよと思ってしまった。家庭内暴力は夫婦間や成人済みの家族同士の話ならそうかもしれないけど、未成年の時の親からの暴力は児童虐待。でも、親を虐待者とは訴えられない。それが虐待。
『人間社会の中で、人々は生まれた時から体の形状などを根拠に性別を割り当てられ、それと同時に二つのことを命じられる。その二つとは、1その性別を変えることなく、死ぬまで生きなさい、2その性別らしく生きなさい、である。』269p数字は丸に数字。
誰も命令してないし、現代においては『女らしさ』を壊すためにフェミニストたちがあれこれと戦ってるようにも見えるんですけど……。だから、トランスジェンダーと女性は相容れないのかなと思ってしまった。
そして、性別は変わらない。性別とは『身体』のことだから。見た目や形状だけではなくて、染色体etc.から、決まってしまう。生き物だから時々、当てはまらない個体は出てくるけど、それでも現在においては大半が判別が付く。先進国なら尚更。
なぜ、性別は『変えられる』と思うのだろう。それは、身体のことなのに。身体だからこそ、悩み苦しみ、苦痛をとりのぞきたいと思うのに……。
性別が変わるなら、男性が出産できる体になる研究をする人が出てきてもいいと思う。女性が射精できる体になる研究でもいいけど、そういう研究を聞いたことがないのはなぜ? 子供産みたいよね?子供欲しいよね? 全員がそうではなくても、トランスジェンダーの中にはそういう人たちがいるよね。なんで研究者になって、身体の性別を変えるための研究をしていないのだろう。
男性の身体が子宮移植で子供を産めるようになるためにはという研究ぐらいなら出来そうだけど、ネックは色々あるけど……。トランス女性の出産の権利を訴えて、研究を進めていいと思う。
もし、そんなのは無理だというなら、やっぱり性別が変わるとは信じてないような気がする。こういうと、性器の形だ、出産できるかどうかに拘り過ぎだというけど……。
こだわるに決まってるだろ。女はそれを押しつけられてんだぞ。好むと好まざるとに関わらず。産みたいも産もうもない。産みたくないという意思すら『いつか、良い人が出来たら変わる』と勝手なことを言われる。しかも、男たちは穴に突っ込んでこようとする。
そんなうんざりする世界に入ってきて、『性器の形に拘り過ぎてる』と言い出すのどうかしてる。私も抜けてぇえ。「性器の形なんて知るかよ」って言いたい。それが言えるの、男性だけだから。性器の形だけで言うなら、私は穴を埋めたい。ホルモンバランスが崩れないなら、性器丸ごと取り出してほしい。でも、女性は女性と言うだけで性器の取り出しは出来ないと言われる。男性にならないとダメだと言われる。それについてはどう思っているんだろう。女性がみんな『女性の身体に満足してる』と思ってるの間違ってるから。
たぶん、男性にもいるかもしれない。性器が気に入らないっていう人達。別に異性になりたいわけではなくて、単純に性器不要と思ってる人たちはいると思う。でも、その人たちに名前はついてない。
『自分が反対の性別に属すると信じているとか、なりたいとかいうより、指定された性別では生きていくことはできないという感覚を抱く、という説明のほうが実情に近い』269p
これを読んで、思ったのは仏教で虎に食べてもらう話……なんだっけ。名前がついてた気がするけど、忘れちゃった。死ぬのは嫌だけど、自分の身を虎に捧げて、虎を生かすっていう話。これは『生きなければいけない』という命令に抗った結果なんだなと思ってしまった。トランスジェンダーって『虎に食べてもらった人たち』かもしれない。
あくまでも、個人的感覚の話で皮肉でも批判でもないです。ただの独り言。
『TREFという言葉は、フェミニズム内部で自己批判のために作られた言葉であるのに対し、TRAという言葉は、反差別の人たちを名指すために差別者が作り出した蔑称である。』283p
よく聞くけど正直、頭に入らないのよね。だってどちらもただの侮蔑語で、議論に無関係だから。
LGBTは分断されてる。団結するべきだと言いながら、フェミニズムの分断には何も反応しないの面白いなと。フェミニズムだって一枚岩ではないけど、『TREF』が自己批判となってるのも面白い。それを分断という。
『同じ二〇一九年一月、ネットに溢れる差別言説を苦に、日本では一人のトランスが自死した。』288p
もし仮に、本当に『ネットに溢れる差別言節』だけで自死したのなら、それはネット依存の可能性が高いので治療をするべきだったのではないかなと思う。そして、ネットに溢れているのはトランス差別だけではない。ありとあらゆる差別が溢れかえっているので、他の差別でも同じことが起きている。
『「ローリングの発言は確かに問題があった。でもその問題点は、トランスの経験を持ってない人にはなかなか理解できないと思う。』290p
『ローリングの記事を読むとわかるけど、彼女はイギリスの多くのフェミニストと同じように、ホワイト・フェミニズム的な見解を共有している。つまり、生物学的女性であれば共通の経験を持っているはずだ、そしてトランス女性は生物学的女性ではないから違うよね、と。そういう生物学の使い方は雑だしよくはないけど、まあそこはよしとしよう。』291p
すごい。トランスの経験を持ってないと理解できない事はあるのに、生物学的女性の経験は『生物学の使い方が雑』になってしまうんだ。
性別が色々あるんだから、『出生時に性別を決めることが差別だ』でいい気がする。なぜ、それを訴えないのだろう。……医療者が困るし、社会が大混乱して地獄になるから個人的にはこの主張はお勧めしない。
『データによっれば、性別移行してから後悔した人は僅か〇・四七%に過ぎない。これは中絶の後悔率(五%くらい)より遥かに低い。』293p
……なぜここに中絶の話を持ってくるのだろうか。なぜ、パイプカットした人の後悔率や整形した人の後悔率などを持ってこなかったのだろう。中絶は『命を殺すこと』だと言われたら罪悪感もわくよ。最近になってやっと『中絶は女性の権利』という言葉を目にするようになったぐらいなのに。そういう女性の背景を分かっていてこの後悔率を出してるのだろうか?
『トランスからすれば、馬鹿馬鹿しい妄想に過ぎないが、しかし男性優位社会に生き、女性差別に苦しんだ経験を持つ女性たちは、案外そういった妄想に共感しやすい。(略)「誰かに『あなたは実は男だ』と耳元で囁かれたら、勘違いして手術を受けてたかも」と彼女たちは言う。……いや、でもお前ら切ってないじゃん。』294p
切ってないかもしれないよね。それを書いた人たちが経産婦でなかったら。産んでたら切ってるよ。男なら子供が出来ても切らないけど、女は産むときに切るんだけど。産んでなくても毎月血まみれだけど。産む予定なくても。こんな不便な体、いらねぇぇぇと思う女性たちはトランスジェンダーよりは多めにいると思うよ。切ったことを誇るなよ。身体の不便さで言えば、女性の方がかなり不便だ。
『人々を「トランスジェンダリズム」とやらの陰謀論にはまらせ、差別に加担させているものは何なのか。「情報リテラシー」の欠如だ。』308p
面白い結論、ありがとうございますと思ってしまった。次の章が楽しみと思ったら、批判しかなくてさらに笑った。
厄払いの断章 その七「差別に加担しないためのインターネット・リテラシー」
インターネット・リテラシー……の話かと思えば、笙野頼子さんとJKローリングの書いたものに対しての批判。
ここに、ネットで発言しないだけで『これが声を奪われる感覚なのか』ともあったけど。なんだ、この平和な『声を奪われる』って。ネット以外で発言場所ないのか?と思ってしまった。そもそも、この小説が書けている時点で声は奪われてない。
笙野頼子さんのエッセイの論旨はこうまとめてある。
『1.海外では「セルフID法」が猛威を振るっていて、どの国でも庶民が知らぬ間にこっそり通過させた。
2.この法の下で、女という文字は次々と消え、女体も如件も女の歴史もリセットされ、女という言葉が禁止され、女という言葉、概念。、主語や医学的事実は無罪になり、女という存在自体が、産まれ自体が差別者にされる社会が来る。
3.JKローリングは女という言葉を忘れたと皮肉を言っただけで史上最悪のネットリンチにあった。
4.二〇二一年六月、この法律も日本に上陸しようとした。リベラル政治家は支持しているが保守系議員のおかげで阻止できた。』313p 数字は丸に数字。
1については、一部国では診断書無しでも性別変更ができるが、『複雑な実態を無視し、〈海外ではセルフID法が猛威を振るっている〉という恐怖感を煽る表現を用いた議論は粗雑』
2については、『事実無根』
3については、ローリングの該当ツイートの問題点は『多種多様な人間が内包している複雑性を無視し、「月経がある人々=女性」と措定していると読める点にある』
4については、『ID法』ではなくて『LGBT理解増進法』のことだと書いてあった。
笙野頼子さんのエッセイ「女性文学は発禁文学なのか?」
これについては別の人も検証してたのでそちらのリンクも張っておく。
『今更ながら笙野頼子のトランスジェンダー見解をファクトチェックしてみた! 苺畑より』
笙野頼子さんの書いたものは↓この辺りで読める。
「小説家」への質問公開状
この本は2022年までの事が書かれているけれど、この↑記事は2025年1月に書かれているので状況がさらに複雑化している。
『情報の表面だけでなく、そうした事柄をも見極めなければならない。それがインターネットが普及した現代社会を生きる私たちに求められる、基本的なネット・リテラシーと言える。偏った情報を鵜呑みにし、差別に加担してしまうことがないよう、そうしたリテラシーが必要だ。』322p
これ、無理です。情報は偏っているものとして考えて、新聞テレビ書籍などあらゆるところから情報を繋ぎ合わせて、考え続けるしかない。この本は『トランス差別』について書いてあるけど、『トランス差別』だけを知ろうとしても無理。もっと広くいろんな知識から考えた方がいい。
その上で常に『私たちは自分の欲しい情報。都合がいい情報しか手にしてないのかもしれない』と疑う姿勢が必要。
ついでに、インターネットだけで情報を拾うと、本当に『自分にとって都合がいい情報』しか入ってこないのでやめた方がいい。インターネットほど脳の働きを悪くするものはないと思ってインターネットを使う姿勢が必要。疲れたら休憩必須。
『ただ望む性別で生きたい、それだけで身体に大きな損害を与えかねず、深刻な合併症や後遺症が残りかねない断種手術をうけなければならない、死ぬまでホルモン治療を受けなければならない。』323p
言い換えたくなった。「ただ子供を持ちたい、それだけで身体に大きな損害を与えかねず、深刻な合併症や後遺症が残りかねない出産をしなければならない、死ぬまでホルモンに振り回される」
最後のホルモンについては他の男女も同じでホルモンには死ぬまで振り回されるので、トランスジェンダーだけではないです。ピルもホルモン剤だし、加齢でホルモンバランスが崩れた時もホルモン治療が役立つときがある。
一番疑問だったのは『性同一性障害者の約六割が自殺念慮を持ち~』という部分。ただ、何のデータを元にしてるのかがわからないので、比較も出来ない。トランスジェンダーのことだけしか書かれてないので、数値を並べて悲惨さだけを訴えているようにしか見えない。これで、トランスジェンダーを可哀そうだとか悲惨な境遇だと思う人はそれこそ『リテラシー』がないので、気を付けた方がいいと思ってしまった。
さらに言えば、自殺理由は複合的なのでトランスジェンダーだからと安易に決めつけるのもどうかと思う。そもそも、トランスジェンダーに含まれないまま『男』や『女』のカテゴリーで亡くなった人もいるだろうし、数値を取るのが難しいと思うのだけど。
ただ、ここに書いてあることはあらゆる『マイノリティ(社会的弱者)』で起きている事で、トランスジェンダーでも起きているという事に違いはない。言えるのはそれだけだと思う。
第九章 喪失
親友を失うまで。
『一口に差別者、トランス憎悪至上主義の信者と言っても、彼らは実に様々な動機と思想的背景に基づいて差別キャンペーンに参加しているのだと気づいた。Lは彼らを大きく、(略)の五大宗派に分けた。』336p
ここまでも、引っかかってしまっていたけど……これはダメでしょ。なんで『宗派』にした? 信者という言葉も、おかしい。これは宗教ではない。最初の『神道LGBTQ+連絡会』の記事でも宗教差別の表現があるという指摘があったけど、なるべく流しながら読んできたのに、無理になって来た。
『女性に対する差別と性暴力の原因を「弱々しい女性の身体」に求め、「女性の身体=ハンデのある身体=被虐者」という本質主義的な発想は、差別と性暴力の複雑性を見逃しているだけでなく、家父長制の倫理を踏襲している。』353p
脱力した……。女性の身体の不便さを知らない人間は『ハンデのある身体』だと実感できないんだろうな。力でねじ伏せられたら終わりの恐怖を感じたことがなさそう。で、なんだって?
『女性の身体は本質的に被害者の身体だという考えそれ自体が、社会に遍在する女性嫌悪を内面化したものであり、そんな発想は女性差別の解消にも、性暴力の防止にも寄与しない』353p
『そんな発想?』いや。実体験だって。Lみたいに筋力があって背が高い(体格が有利)なら、私もそう思えたかもね。
いや。なんていうか……Lはいいな。殺されそうな恐怖を感じたことなさそうと思ってしまった。自分の優位性に無自覚だとこうなるんだなという事は理解した。
『容姿を嘲笑されたり、差別を受けたり、妊娠できないことでコンプレックスを抱いたり、強制売春させられたり、パートナーから拒絶されたり――は、すべて現実世界でトランス女性が実際に経験していることだ。(略)差別者たちが考えている以上に、現実のシス女性とトランス女性はもっと近しい存在であり、多くの経験を共有しており、ゆえに連帯可能なのだ。』354p
え?何だって?これがトランス女性が経験したトランス差別? いや。それ、女性差別って名前がすでについていたと思うけど……これが『女性が消される』という事なのだけど、分かっていて書いてるの?と思った。
『女性差別の解消に寄与しない』と書いてたって事は、女性差別が何なのか分かってるよね? 『パートナーからの拒絶』は外しても、他は女性が常に受けている差別なんだけど。これを『トランス差別』というなら、『トランス男性』も同じ差別を受けるの?違うでしょ??って言いたくなる。
連帯出来ると思うのすごいな。私はLと連帯は出来そうにない。
親友めぐとの会話は興味深い話だった。
『「男が女子トイレとか女湯とかに入ったら、それはあの人たちの問題で、そういう人たちが逮捕されればいい話だから、トランスを差別していい理由にはならないでしょ?」』383p
なるほど『男』と『トランス女性』は別という意見なのだなと思った。でも現実は『男性器が付いた男性にトランスジェンダーの診断が付いたら、職場の女性トイレに入っていい。(意訳)』という判決が出てしまっている(2023年)。手術のために『女性としての生活実態が必要なので女性トイレ使用する』ということらしいので、この話の中の『男』とは、診断がない人という程度の意味しかない。性器移行前に女性トイレは使わなくてはいけないという事は、この本には一切書いてないどころか常に『性器は問題ではない』と問題から外されるのは、そういう意味なのだろうなと思う。
この後に、『身体男性の定義』の話があるけれどなぜか『胸に脂肪があって、下半身にペニスがついていない人が女』と女性の定義にすり替わっている。……なぜ?
身体男性の定義は『精巣と陰茎がある人(または、あるはずだったが生まれつき、もしくは成長後に失くした人)』で良いと思うんだけど。
女性の場合は『卵巣と子宮がある人(または、同文)』だけど、わざわざそんなもの書かなくてもあってもなくてもそれで苦労してるのが女性。男性もそう。胸はそこまで問題ではないけど、あればいい人もいるし、なくてもいい人がいる……それだけ。(ただ、女性の場合はそれがあるべきだと思わされてるのと、膨らむ人が多いというだけ)
『今のめぐみたいに、自分が経験した傷と痛みを語れるということ自体が、そもそも一種の特権だ。』393p
ここまでの会話から『お互いに追いつめられている』し、『それでもまだ親友という安心感』もあっての『傷と痛みを吐き出してる』という状況なのは分かってないのだろうか? 正直、これを特権と言うなら、『その傷と痛みを聞くことができるL』の方が親友という特権的立場にいるという事になると思うけど。この『特権』の意味が分からないし、『トランスだと告白していない』のはLの都合でめぐさんは関係ない。
そしてこの二人の会話、最初からLが間違っている。境界を越えすぎてる自覚がないのかな。そもそも『ツイッターで、その発言しないで』ではなくて、「ごめん、耐えきれないからミュートしたね」というだけでよかったと思う。親友だからこそ『相手の発言を封じる』のは良くないし、親友だからこそ『私を分かってほしい』の前に『相手を理解する姿勢』が必要だったような。
ついでにこれ、一度で『全部話しきる』のは無理だと思う。一度目は『ツイッターをミューとした』という報告と、『どうして、トランスに批判的なの』という理由を聞きだすだけに徹する。自分の意見は一切言わない。二度目に『あなたの考えを聞いて考えたけど、自分はこう思っていて、できればあの発言はやめてほしい』ぐらいにして、出来ないと言われたら一旦引き下がる。三度目で「ようく考えたけど、だったら今後の関係は無理かもしれない」と切り出すぐらいにした方がよかったような。これだけ重い話をするのに『その場の流れで』進めちゃったのはどうかなと……でも、現実ってそんなものだよなとも思う。だれもそんなに冷静ではいられない。
ところで、まさかと思うけどこのやり取り現実に起きたことで、相手の許可なしで書いているなんてことはないよね。この部分は創作だよね。もしくは、仲直りして許可をもらっているよね。そうでないなら怖すぎる。
厄払いの断章 その八「摸魚児」
よくわからなかったけど、他の本もぺらぺらとめくってみたら、これがこの人の描き方なのかなと思った。
第十章 邂逅
抗議デモに参加する。
『宇多田さんの場合、これまでずっと女性として生きてきたし、今も見た目は誰からどう見ても女性です。ノンバイナリーだと言ってるけど、それこそ自称だけなんじゃないかなって』413p
トランスのことはわかるけど、ノンバイナリーは分からないという話。それと同じ事をLが『差別者』だと言ってる人たちも感じてるんですが。『性別は色々ある』って言ってたのどこ消えた?と思ってしまった。性別について理解してるなら、ノンバイナリーも性別として理解してないとおかしいような。結局『女性』『男性』の二元論しか理解できてないの?
厄払いの断章 その九「祝詞」
デモの最中にいきなり祭壇が作られて祝詞があげられる。……けど。これ、いいの? 祭事ってこういうものだっけ?と思ってしまった。雰囲気満載だけど、なんていうか……雰囲気だけ。このシーンだけなぜかいきなりファンタジー色が強すぎて、面食らってしまった。
第十一章 時代
一年経って李琴峰が産まれた。
……批判ばかり疲れたので、感想はやめる。もう、要らない。
エピローグ
締めの言葉が綴られている。
最後まで批判ばかりで疲れてしまった。
誹謗中傷はダメだと思うけれど、それを『トランス差別』とだけ結び付けられても読む方としては『見なきゃいいじゃん』で終わりなのよね。もっと『傷と痛み』を生々しく語る本かと思っていたのに、ただの誹謗中傷との戦いでがっかりというのもある。アウティングも自分がされたら怒っているのに、いろんな人の暴露をこの本でしてるけどいいの?と思う。
ファンタジーを入れるなら、『82年生まれ、キム・ジヨン』くらいがっつりと入れてほしい。そして、これと比べると本当に差別の中身がなくて幸せだなと思う。
私は『見た目で性別を決める』のは良くないと思っているので、『服を着ている見た目は関係ない』という部分だけは頷く。「あいつらは女に見えない」という指摘をすることで、攻撃されるのは『トランス女性(身体男性)』ではなくて、『身体女性』の可能性も十分にある。服を着ている見た目だけで性別がわかるというのは無理だと思ってる。性器が盛り上がってるという露骨なのも見かけるけど……それ、生理用品だったらどうするのかなと頭をよぎる時はある。とはいえ、人の風貌や容姿はあれこれ言わない方がいい。(それが女の世界なんだよなという絶望感もある)
でも、同時に『トランス女性は女性スペースに入っていい』とは言わない。その言葉で入ってくるのはトランス女性に成りすました男性の可能性が大きいから。
あと、性器の形よりももう少し詳しく言えば、『性器が機能するかどうか』が一番問題なのよね。妊娠させるという最大の暴力を振るえるのは男性だけだから。妊娠しなけりゃいいだろでもないけど、妊娠が最大の暴力であることに違いはない。拷問で一番残酷なのは『生きながら死にたいと思わせること』……妊娠は一歩間違えばそれになる。中絶すれば殺人者の汚名を自分に着せる可能性もあるし、産めば子供には経緯は一切説明できないことになる。そういう意味で妊娠は心身ともに破壊する最大の暴力。そんな暴力を振るえる属性の傍で身体を晒すのは恐怖でしかない。という話を理解できないあたりが……これ以上は暴言になるのでやめておく。
関係ありそうな本。
「あいつゲイだって」を読んで
「LGBTとハラスメント」を読んで