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「あいつゲイだって」を読んで

2024/03/07

あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?
– 2021/11/29 松岡 宗嗣 (著)

あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?

「あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか? 著:松岡宗嗣」を読んでみた。
図書館で借りてきた本2冊目。
こちらは『ゲイ(男性同性愛者)』の話。

「アウティングは命にかかわる」という事を基本に書いている。
良い悪いは抜きにして、一貫して書かれていることが良かった。
それぞれ振り返る。

第一章 一橋大学アウティング事件――経緯
第四章 一橋大学アウティング事件――判決
一橋大学の事件の経緯が書いてある。同性愛者Aが友人のZに告白して、Zが他の友人たちにアウティング(同性愛者であることをばらす)してしまう経緯である。Aはその後転落死する。

この事件が複雑なのはZが一度、告白を断ったにもかかわらずAはZに付きまとい、Zの精神状態がおかしくなっていったという点である。この点だけ見れば、嫌がらせと思われることをしているのはAの方である。
Zがラインで友達にアウティングしてしまったのは問題だとして、その手前で『相談先』があればZの神経もそれほど追い詰められなかったのではと思う。
そして、この点があるからこそ『同性愛者Aの方が酷い事をしているのに、死んだから同情されている』という解釈をする人もいる。

経緯だけ読んでも、いまいちピンとこないどころか『アウティング』より先にAの連絡の量や言動・行動のおかしさにZが参ってしまう方が『問題』に見えてしまう。
Zがアウティングに至った理由は限界だったからの一言に尽きる。言葉を尽くして距離をとろうとしていたのに、Aの方は『今までと同じように隣にいたい(そうしてくれないのはおかしい)』と、周囲に対してもそのように話していたのだから。

これに対してAは大学のハラスメント相談室で相談をして『Zからの謝罪を求めていた』とある。Aの視点の話が多いので、勘違いしそうになるが『Zが最初に友人ひとりに口止めをして相談していた』事も書かれている。一人の友人だけではなくて、もっと大学側の相談機関などに『相談がしっかりできる雰囲気』があれば、Zも友人たちへアウティングをしなかったのではないだろうか。
また、裁判は最終的に『棄却』されたが、アウティングが不法行為であることは示されたとあった。

裁判の結末までは知らなかったなと思った。

アウティングが命を危険にさらすという事は大前提として、そのために『告白された側』にも相談できる場所が必要だと思う。
この事件で、『アウティング禁止』だけが先に立って、『告白されて困っている人』が相談もできない状態になるのでは本末転倒だし、この事件のように『断られて態度を変える人間が悪い。今までと同じような態度でいろ』と強要するのも間違っている。


第二章 アウティングとは何か
本人の性のあり方を同意なく第三者に暴露する行為をアウティングという。

著者の経験で大学時代に性的マイノリティ当事者が集うサークルでは、何かのイベントで使用する教室には『サークル名』は当事者が集うとわからないものにしたことや、そのサークルで出会った人たちと歩いていた時に、他の友達と会った時に『何の繋がりだというか』を確認し合ったとある。

そう言えば私も、ネット上のビアンの集まりで出会った人一緒にいた時、『こことは関係のない知り合いに会った時にはこういう趣味で知り合ったことにするね』と別の理由を提案された。なるほどと思ったのを思い出す。

当事者同士のアウティングが一番注意が必要。私もうっかりやらかすところだったのだと、この本を読んで気が付いた。


第三章 繰り返される被害

被害の例が出されている。一つはトランス女性の話。もう一つは同性愛の話。
トランスは体を見せるように言われたり、更衣室の使用を気持ち悪いと言われたりする。同性愛は『うつる』などと言われる。
しかしどちらもアウティングは「よかれと思って」されたのではないかと、本には書いてある。
これに関しては、被害があるから可哀そうだよね……という話になりそうで、そこは違う気がする。被害は被害として、更衣室とトイレと風呂の問題は別。「かわいそうだから入れてあげよう」という場所ではないし、逆に「トランス男性は男性風呂に入って何の問題もありません」とトランス男性側から男性の安全性を訴えた方がいいのではと思う。しかし、実際はそんな事はなく、トランス男性が男性の被害に遭うだけなので女性たちもそんな事は言えず、「女性スペースにトランス女性は入るな」というしかない。
こういうの混ぜられると『身体を見せれと言われてかわいそうだから女性スペースに』という感情論になってしまう。『身体は見せなくていい』『女性スペースには入れない』それだけでいいのに。


その後に地方女性がアウティングにあったという例もあるが、地方の場合はさらに偏見と無理解が強い。血縁地縁が深いだけに、あることない事の尾ひれまでつけられてうわさが広がるどころか『あの家系はそういう人の集まり』と親族が迷惑を被る事すらある。

LGBTが地方でカミングアウトできないのは被害が自分一人にとどまらない可能性があるからだと思っている。

そんな意味では、都会の方がある意味『自分一人の問題』としてカミングアウトしやすい。私も首都圏にいた時は、一部の人にカミングアウトしていた。実家に戻ったらできなかったが家族に話してみたら冗談として流された……まぁ。そんなものですね。

カミングアウトは『マイノリティであることの告白』のような意味でとらえていたけど、もともとは『クローゼットから出る』という意味らしい。閉ざされていた世界から、外に向けて発信するというような感じだろうか。しかし、クローゼットに入らなければ、社会的に差別や不利益を被っているのだから、そこから出るのは容易ではない。

確か以前、『カミングアウト』というもので企業が『実はこの商品は……』という商品の裏話公開に使ったら、炎上したというのがあったと思う。当時はいまいち意味が分かってなかったが、そもそも『商品の裏話』は隠すべきものではないのでクローゼットにも入っていない。カミングアウトという言葉にすら合わないのだとわかった。

カミングアウトは、それを公開することで不利益を被るかもしれないと思いながらも『公開することで得られるもの』を手にするために行うのだと思う。不利益を被らないカミングアウトは、カミングアウトとは言わない。

カミングアウトの範囲は当事者が決める必要性がある。という章だった。


第五章 アウティングの規制
アウティングという言葉の認知は2割程度とあった。やはり、興味のアンテナが向いていない人には通用しない言葉のようだ。

私の興味は中途半端に向いているので『なんとなく』程度は知っていた。私の興味は『差別(弱者)』と範囲が広いので、すべてを事細かに理解してるわけではない。差別(主に虐待)に関するあれこれに広くアンテナを張っているだけだ。特にカタカナ言葉は苦手範囲なので『なんとなく』程度の理解しかしていない。一般人より少しだけわかっている。けど、詳しいわけではない。

アウティングは「仕方のない事だと思っていた」という事も書かれている。カミングアウトしたならば、勝手に広がるのも仕方ない。私もそう思ってた。でもこれは『差別構造』あるあるで、アウティングに限らず、差別される側は『仕方ない』という諦めと共に抑圧されることに慣れてしまう。という事ではないのかなと思う。

カミングアウトの自由について書も書かれていた。まるで、性的同意のようだと思いながら読んでしまった。
『話してもいい。話さなくてもいい。話さないことの強制や話すことの強制をしない』
『話す』としたけど、カミングアウトと本にはなっている。そのような条例が作られているという話。

『してもいい。しなくてもいい。しないことの強制や、することの強制をしない』

読めば読むほど、性的同意にしかみえなくなった。性的同意に限らず、『全ての同意』がそのようなものであり、カミングアウトも『同意』が必要な個人が決める権利を持つものという事だと思う。


第六章 広がる法制度
条例などについて書かれている。

しかし、言葉にすることでカバーしきれないものもあるという事まで話が広がっている。特に『トランスジェンダー』たちの性別については、移行前、移行中、移行後でどうするのかが変わっていく。移行前ならば、性自認の暴露がアウティングになるが、移行後ならば元の体の性別の暴露がアウティングになる。

また、移行中。もしくは、理由があって、体をまだ変えていないが、周囲の認識は性自認で認められている場合は、戸籍上の性別がアウティングになる。しかしそれは、ただの事実だと言われてしまう場合もある。

『性自認の暴露』ではなくて、『戸籍・法律上の性別の暴露』となるのだが、この辺りは条例ではバーできていない。という事も書いてある。

言葉は難しい。


第七章 アウティングとプライバシー
プライバシーとは何かという事が書かれている。改めて言われると、私も何だか分からない。ただぼんやりと『私的領域に関すること』と思っている程度だ。
アメリカでは『自己情報コントロール権』。ドイツでは『情報自己決定権』という名称だったと書かれている。
個人的には自己情報制御権よりは、『情報自己決定権』の方が好きだ。

日本では、「プライバシー」は法律で明記されていないともある。代わりに他の言葉でプライバシーを表しているようだが、……長いので引用はしない。

アウティングはプライバシー侵害になるという話でまとめられている。カミングアウトが『当事者が決定すべきこと』なのだから、情報公開範囲も勝手に他者が行ってはいけない。


第八章 アウティングの線引き
ここで、アウティングに該当する線引きはどこかという話になる。
ここまで『アウティングはダメだ』と訴えていたのに、ここでは『必要な場面もあるのではないか』と考察する。

一つ目『属性』
海外の人やミックス(日本人と海外の人との間の子)、部落差別、難民などそれが知られることで『不利益を被る』人たちがいる。
性的マイノリティ以外でも『アウティング』という言葉が適している場面もある。
しかし、言葉の矮小化には注意が必要とある。これは『商品の裏話』などで『アウティング』という言葉が使われるのがいい例である。『今まで話していなかったことを話す』という意味合いで使われるのは違うということも頭に入れておかなくてはいけない。

二つ目『場面』
ここでは3つの事例を出している。一つは保育園児の情報をホームページに公開されたというもの。園児の数が少なく、その特徴を書く事で園児の特定が出来てしまうということで問題になった。

一つは俳優が『オネエ疑惑』などで引退したというもの。芸能関係は詳しくないが、うっすらと『あれかな』と思うものが浮かぶ。当時母が「こんなことくらいで辞めちゃうの? 今時、誰だって公表してるじゃない」と言い放ったのを覚えている。当時は私もうまく言えなかったけど、公表するかしないかは当事者が決めることで他人が面白おかしくいう事ではないと私は思っている。

一つは政治家が、同性カップルの公開質問状の封筒を公開して、カップルたちの住所をさらしたというもの。
本人たちが納得してホームページに載せてたからと言って、政治家という影響力ある人が『一般人』の住所を晒すのは”なし”だと当時思った気がする。

一つ目は本人の同意がないのでアウティング。
二つ目はアウティングではない。理由は本人が『そうだ』とも『違う』とも言っていないから、勝手に他人が『アウティング(性的マイノリティ)である』と決めつけられないからだ。しかし、疑惑を面白おかしく報道する姿勢は差別を増長する。

三つ目も、性的マイノリティについては何も指摘していない。しかし、住所を晒すことが『プライバシー侵害』であり、やってはいけないこと。

というようなことが書かれているが、アウティングかどうかに限らず『悪質な被害』をそれぞれ被っていることに違いはない。


三つ目『許容範囲』
当事者間の人間関係のトラブルなどを相談窓口に相談することは『アウティング』になるのかどうか。
本書では『例外的に認められる』となっている。被害者になっているのに、その被害を相談する場所がないのでは加害者がやりたい放題になってしまう。
報道はどうかというと、これはケースバイケースのようで難しい判断があるようだ。また、ガイドラインも存在しているらしい。

緊急性の高い状況でも例外的に認められるとなっているが、これは『個人の判断』にかかってくる部分もあるようなので、『アウティングではない』と言えるのかどうかを、情報が足りない個人が判断するのは難しいのではと思ってしまう。
後から『アウティングされた』と言われたら終わりである。
荷が重い事を書いてあるなと思ってしまった。


第九章 アウティングのこれから
カミングアウトされた側の不安についても書いてあり、一橋大学のZに必要だったのも『相談先の情報や、どのように相談するべきか』という事だったのではないか……となっているが、これは事件の話の中におかないと、こんな離れたところに書かれても……と思ってしまった。

そもそも、『アウティング』が起きるのは情報や知識不足からなのだから、最低限『困ったときは、このような場所で相談』だとか、『共通の知り合いではない人に対して、特定されそうな部分をぼかしながら相談する』ということは伝えていかないとと思う。

アウティングされたくないというのは、マジョリティだからというが、そうではなくて『マイノリティの苦労』を知っていれば『そんな重荷は背負いたくない』と思う人だっているだろう。私もこの本を読んで、めんどくさいなと思ってしまった口なのだから。

トラブルが何もなければいいが、いったんトラブルが起きてしまえば、『アウティング禁止』という文面だけが独り歩きして、『誰かに相談する』ということが出来なくなってしまう。
それで、物事が悪化するのは本末転倒である。

一番いいのは『差別や不利益を被らない社会』だとしても、現状はまだそれには遠いのだから……。
少しでも性的マイノリティを知ろうとしてる人に対して『アウティング禁止』と伝えるよりも、『こうした方がいい』を伝える方が有益だと思う。


終章 アウティング、パンデミック、インターネット
コロナ感染も残念ながら『アウティング』に等しい。差別対応されるものになった感染初期。
今はそうでもないが……初期の差別感覚は『コロナ』よりも『差別』が怖いと思うほどに、怖かった。当時私は、感染しても病院に行かないぞと思っていた。感染確定診断されるよりは、お家で不審死を選びたいと思っていた。
コロナは世の中のあらゆる『差別』をあぶりだしたと思う。ゲイや夜の街に対するもの。看護師や運送の仕事をしている人の子どもが、保育園から来るなと言われるような事例すら見かけた。感染と戦っている人たちほど差別されることに、おぞましさすら感じた。

『社会は勝手に変わらない』

最後にそう書いてある。今ある社会も、誰かが切り開いてきた社会だ。
『今は昔よりましになった』と上の世代は言うけど、その『マシ』を作ってきたのは常に戦って批判され侮辱されてきた人たちがいたからだ。
というようなことが書かれている。これは別に性的マイノリティに限った話ではない。女性差別、障害者差別、部落差別など、全て戦ってきた人がいる。

実は三冊目も読み終えているが、同じことが最後の方に書かれている。

勝手に変わらないけど、『何かをしてはいけない』よりも『こんな選択肢もある』と示せるほうが素敵だと思う。

この本は『アウティングは禁止』という事が書かれているが、本当は『誰かに伝える時は、慎重に』『本人の同意を得て』で十分だし、トラブルが起きた時は『相談窓口がある』という事と『共通の知り合いでなく、知り合う可能性が限りなく低い人になるべく相談する(理解がありそうな人なら、なおいい。)』でもいいのかなと思う。

間違っても『面白おかしく伝える』はアウトである。

さらに『良かれと思って』もやめた方がいい。『良かれと思って勝手に』やることは的外れになりやすい。アウティングに限らず。


おまけ::
実はこの本を読む前に、この本に関する批判的な意見を目にしていた。
それは一橋大学の事件についてで、この本はAを擁護しているがZだって十分被害者だという言い分だった。
確かにそうだ。この事件があったからこの本は書かれたとなっているが、『アウティング』が問題なのはわかるがそこだけに注目すると『相談できなかったZ』はどうしたらよかったのかという事になる。

一橋大学の事件は、まず、LGBTへの理解のなさよりも『人間同士のトラブルの対処法』を子どもの時に教えるシステムがない事が問題だと思う。

海外だと、『子供同士はトラブルを起こすもので、そこに大人が適切に介入するのは当たり前』という文面を見て驚いた。
確かに日本は『トラブル』が起きても、弱者(うまく説明できない。周囲を納得させられない人)に我慢させることで、それを収めようとする。
性的同意を学んでいても思うのだが、まずは『断られても大丈夫なメンタルを作ろう』と同意にはある。私もそれが欲しいし、そのように思うにはどうしたらいいかを子供の時に学びたかった。

Aが『告白を断られたも大丈夫と思える事』、『相手の反応を見て一旦、距離を取る事』などを理解していたらアウティングには至らなかったのではないかとすら思う。

A側から見ればZが問題のように見えるかもしれないが、Z側から見ればこれは『拒否を拒否として受け取ってくれない』という同意の問題になるような気がしてならない。
アウティングを肯定しているわけではないが、一橋大学の事件は特殊過ぎて『アウティングが一番問題だよね』とは言えない事件だと思う。


『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』