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「歌われなかった海賊へ」を読んで

2024/07/28

歌われなかった海賊へ – 2023/10/18 逢坂 冬馬 (著)
歌われなかった海賊へ

「歌われなかった海賊へ 作:逢坂冬馬」を読んでみた。

「同志少女よ、敵を撃て」と同じ作者さん。
舞台はドイツ。エーデルヴァイス海賊団の物語。

同志少女は歴史説明が長くてうんざりしたけど、それと比べるとこれは歴史説明は少な目。
ただ、前回と同じく……タイトルありきで物語を作ってるのかなと。そして、それが上手くいっているとは思えない。作り込むならもっとしっかり作り込んでよねと思ってしまう。歴史や武器説明を元に、後は雑にいろいろくっつけた感がぬぐえない。

前作も思ったけど主人公の変化が、『最初から決まっている』感じで読者を説得する材料がないので、なんでその思考になってる??という部分が多すぎる。もっと説得力が欲しい。
前作は男女の対立。今回は大人と子供の対立になっている。

全体的な物語の筋は好きだし、メインキャラ3人の繋がり方もいいなと思った。

入れ子の構造になっていて、現代で偏屈だと言われていた老人から一冊の本を受け取って読む事で物語は始まる。
時代は敗戦間際のドイツ。隣の町に収容所がある事を知ったエーデルヴァイス海賊団たちが橋を爆破する。彼らの一部は処刑され、爆破に加担し生き残った少年がそれを本にして主人公に渡したことが最後のあたりで分かる。少年は老人になっている。
これがだいたいの筋。


気になったところを書いていく。
『ペーター・ライネッケは拳を固めた。彼は生まれて以来、暴力によってのみ自分の意思を表現してきた人間である。』119p
主人公たちが追い詰められた……と思ったところで、視点が敵役のペーターにひっくり返った。この形で、こういう紹介を唐突に入れると読むリズムが切れる……と思ってしまった。他にも、最終あたりの329pでフランツに視点が切り替わるけど、これも意味が分からなかった。『ある日の朝方』って、それいつの事?? 処刑から日が経ったのか、処刑された日なのか……。日が経ってるなら、その間ずっと2人は広場に来てぼうっと座ってるだけだったの?


『女の子同士は未熟だから、ちょっとした気の迷いで、友達が恋人に思えてしまうし、一時的にそういう勘違いをすることもあるって』p143
この作者はどうしても同性愛者を出さないと気が済まないのだろうか。それも、女性の同性愛者を。最後には男性同士の同性愛者も出てくるけど、主人公をそういうネタにしないと気が済まないの?次もこれやるの?と思ってしまった。
そして、こういうのはよく言われる事だし、ある部分では間違ってないと思う。ただそれは『女の子同士』『男の子同士』だけではなくて、『男女間』でも友達が恋人に見えるという意味。男女間でも勘違いが起こるので、同性同士で勘違いが起こることもある。

『「お前は信じていたんだな」227p』
ユダヤ人が女の子に酷いことをしたという話を信じていた12歳のフランツに向かって言った言葉。16歳のヴェルナーがそれを信じなかった……というのはその前の世界を知ってるからで、生まれたときからその世界にいる子どもが『大人から教えられたことを信じない』なんて、それこそ何か異常があるとしか言えないのだけど。
これは子供が言った事だからとこうなのだと思えばいいのだろうか。

『「自分が反体制的な人間だと考えているのなら、それを表に出すのは、もう少し後でもいいと思うのよ。」239p』
エーデルヴァイス海賊団の活動をしている主人公に向かって女教師が言った言葉。優しくていい教師でも日和見だという事を表すためのシーンなのかもしれないけど、こういうのが露骨すぎて気持ち悪いなとも思う。ところで、ドイツでは連合軍が女を凌辱するという話はなかったのだろうか……と思ってしまった。連合軍が来た時に「自分を良い人だった」と言ってほしくて主人公にこう伝えたという事だけど……その前に連合軍の凌辱の方が怖くないの?

『「これで、レールが連合軍のものにならいないで済むし、かわいそうな人たちが収容所に運ばれていじめられることはなくなるんだね」247p』
これも12歳のフランツの言葉。純粋に作戦を信じている。ただ物語の装置にされてる感じも否めない。子どもだから純粋だろうという作者の思惑も見え隠れするような気がして、モヤモヤする。12歳の理解力はもう少し高い気がする。それともこの時代のドイツの子どもたちはこの年齢でこれくらいの理解力だったのか……なにか理由がないと変だと思う。

『それのせいで、どんな戦争が起きたかわかってるのか、どれだけの人が死んだのかわかってるのか、って言ってた。358p』
ハーケンクロイツのタトゥーを入れていた若者に老人が怒鳴った理由を説明している。
……これ、現代シーンなので2020年だよね。ドイツってそこは無茶苦茶厳しいんじゃなかった? 日本のデザインでハーケンクロイツはダメだって批判が出るくらいには、世界的にそれがダメってわかってる。そんな世界で、ドイツの若者がハーケンクロイツを入れるの?え。それ、ホント?と思ってしまった。物語として、そうしたかっただけなのかもしれないけど、現実的には無理があるような。



これ、『戦時中なのに現代的価値観を持っている主人公ヴェルナー』が違和感ある。ただ、その違和感を回避するためにも『現代の価値観を持った老人が書いている』という設定にしてあるのかなと。ただ、その設定がうまく作用してるとは思わない。だって、主人公のその価値観はどこから来たのか……が、全く分からない。いや。これは『ただの若者の批判的精神』とでもいうのだろうけど……それにしては理屈が通ってない。
鉄橋爆破計画と同じく、なんだか全てが行き当たりばったりな感じもする。

「思想はない」とあるけど、思想があるから『批判』になるわけでと思ってしまった。収容所に続く列車の爆破は批判行為として成り立ってるので、立派な思想なんだけど……。なんだろ。政治的に動いてるわけじゃないというのが、かっこいいと思う感性がこの時代のドイツにもあったのだろうか。現代日本はそんな感じというのはわかるけど。現代の若者の感性をこの時代のドイツにも当てはめてるような感じもモヤモヤする。

最後もエーデルヴァイス海賊団の二人が処刑されてしまうけど、あの状況で処刑をする意味もわからない。理屈をこねまくって『爆破事件自体をなかったことにしたい』になってたけど……しかも、処刑後すぐに敵が来るってどういうこと? 劇的にしたいがために『敵が来ているのに戦わずに少年たちの処刑を優先させる軍』という謎なことになっている。
戦時中だからみんなおかしくなって、優先順位が分からなくなってるという理屈で通すのだろうか。

正義は何もないところには降ってこない。
主人公のヴェルナーはやたらと正義感あふれる真面目キャラになってたけど、父親はクズで暴力の中で育ったということになっていた。暴力の中に正義はない。ってペーターの説明でも言ってた気がするのに、主人公になると『正義がある』事になるの謎。

主人公のあの思想(弱い者いじめをしない。強いものに立ち向かう)はどこから来たの?
前作(女性を守る)も思った同じ疑問が今回も沸いた。暴力のある環境って『弱い者は殴っていい。殴られる奴が悪い』の価値観に染まりやすい環境ってことなんだけど。それがない主人公が不思議。

今回はとことん、大人がクズになっていて、子供が被害者になっている。でもさ、子どもの正義感は『大人の誰か』が教えないと知りようがないことなのだけど……子供たちが自発的に正義感だけ持ってることはない。最近の児童書もこういうの時々あって不思議だなと思ってたけど、みんな真面目に『正義感は勝手に子供が持つもの』とでも思ってるのかな。勝手に育たないから。勝手に育ってるように見えるのは現代が『情報過多=栄養過多』でたまたま、『正義の種の栄養』を子供が摂取した時に芽吹くだけ。それを『子供が勝手に正義感を持つ』と思うの間違えてる。

物語の大まかな筋は好きだけど、キャラもその他設定も抜けてるのか雑なのか……イマイチ。喧嘩シーンは、グロイので注意。銃器については前作と同様やたらと詳しい。作者のマニアックっぷりが発揮されている。

今回のお勧め本は『マララ』『私はマララ』。子どもの正義感は勝手に湧いてこないという事がわかる。
戦時中のドイツなら『アンネの日記』もお勧めだけど……感想書いてなかったな。読み直そうかな。



『歌われなかった海賊へ』