リトル・トリー 単行本 – 1991/11/1 フォレスト・カーター (著), 和田 穹男 (翻訳)
「リトル・トリ― 著:フォレスト・カーター 訳:和田穹男」を読んでみた。
『当事者だと嘘をついて、当事者としてその小説を書いた』という話題の中で出てきた本。
この本の作者もインディアンだと言って本を書いたけど、実はインディアンではなかったらしい……という話を聞いて、借りてみたのに、あとがきには『作者はインディアンの血を引く祖父の元で育った』と書いてある。
基本的にそれが本当なのだろう……という形で書かれていて『作者の経歴は不明な点も多く、アメリカでは論争もあった様だ』という事が短く付け加えられている。
彼にはインディアンの祖父はいなかったようだ。
ウィキペディア(アサ・アール・カーター ペンネームがフォレスト・カーター)では、KKK(白人至上主義団体)に関わっていて、人種隔離政策を進めていた側だとも書かれている。人種差別主義者とまで言われていた作者。……どんな意図でこの作品を書いたのか謎だ。
ウィキには『チェロキーの言葉や風習の描写は不正確であり、キャラクターはステレオタイプであるとしている。』とも書いてあるので、その辺りに注意して読んだ方がいい作品。
作者を調べるだけでも、『物語』になりそうだ。
さて、作者の知識はこのくらいにしておく。
物語はインディアン、チェロキーの血を引く祖父母に育てられた少年の物語。季節の移ろい、山の生活、自然や動物たちとの関りと言った優しい世界が広がっている。最後の方に少しだけ白人のインディアンへの差別感情が見えるシーンがあるけれど、基本的には平和だ。
これが『どこかの世界にこういう部族がいた物語』ならば読めるし、何も問題はないと思う。
けれど、『インディアンの』となると様々な場面に違和感しかない。その文化を持たない人間が表層だけを掬い取って、『面白おかしく書きました』というものを感じる。わかりやすく言うなら『ありきたり』で、『理解していないので書けない』のかなと思う部分が多い。
少し前に読んだ『スーラ 作トニ・モリスン』の作品は黒人社会とその価値観と、白人社会とのつながりなど社会の構造などが上手く書かれていて、当事者しか書けない部分が多いように感じた。
『リトル・トニー』には文化や価値観は調べて書きました感が強く、『当事者だからこそ書けるもの』を感じない。そして、正直『誰が白人』なのかがわからなかった。政治批判をやたらとしてたけど、なぜ『政治批判』をインディアンがするのかがわからない。この時代は政治家=白人だったという事だろうか。
白人がどの程度近くにいるのか。有色人種の方が多い場所なのか。本当に『山』で暮らすことが出来るような時代だったのか。
最初に気になったのは、バスに乗るシーン13p。切符を買うことに手間取ってると、運転手が嘲笑ってくる。乗客もつられて笑う。少年はそれに『悪意』を感じないという部分。この場面で悪意を感じないことが不思議だ。
そして、同時に『悪意を感じなくてホッとした』ということは、それまで『悪意を向けられたことがある』ということだろう。それはどんな悪意だったのかは書かれていない。
1930年となってたから、おそらく人種隔離政策がとられてる時代かな。という事もバスも『行き先』だけではだめで、それが有色人種が乗るバスかどうかの確認も必要だったのでは?
次は山七面鳥の罠を作るシーン22p。
長いナイフで穴を掘る。5歳の子どもが入れるくらいの穴を……。それ、どんなナイフ?ナイフで穴を掘るシーンって初めてな気がする。『なた』みたいなものかな。
そして、どうするかと言えば、穴を隠して、トウモロコシを穴の上に撒いて『落とし穴に落とす』というもの。こういう罠って『人が落ちないように警告の目印』も付けるものだった気がするけど。文化が違っても、こういうルールって意外と似たようなものだったりする。
そして、動物はそんな簡単に『人間の匂いが付いているエサ』には飛びつかない。山七面鳥とはそんなに警戒心のない鳥なのだろうか。
『マクベス夫人は、さかりのついたときのいらいらを殺人なんかではなく、もっと別の方法、例えば壁に頭をぶちつけてまぎわすことだってできたはずだ』35p
マクベスの作品に対する、祖父の意見。こういう価値観はキリスト教では?と思ってしまった。インディアンの価値観はわからないけどこんな価値観をインディアンも持ってるのか、それとも祖父は白人の中で暮らしていてキリスト教の価値観を身につけたからこうなのか。
英語の文化がかなり入り込んでいるみたいなのはわかるけど、シェイクスピアを読むのはなぜなのかがわからなかった。インディアンにはインディアンたちの物語があると思うんだけど。インディアンの話は祖父母の昔話ぐらい。
日本人が日本昔話を語らずに、グリム童話を語ってるみたいだなと思う。
『11 はだしの女の子』147p~
この章では、小作人のはだしの女の子に靴を与えたら、女の子の父親が「ほどこしは受けない」と怒鳴るシーンがある。
ただ『小作人』となってるので、相手が白人なのか有色人種(アジア系・アフリカ系)なのかがわからない。この社会構造なら白人ではないだろうから有色人種だと思って読むけど……職業よりも人種を書いてほしいんだよと思ってしまう。
『「あの女どもは、亭主のしっぽをつかみたいだけさ」と祖父が言う。「告白すれば気持ちは楽になる、人からはほめられる。そうと知ったら、ほかにも男遊びを告白する女が現れるかもしれん。』247p
教会で姦淫の罪を告白し、相手の男を名指しした女に対して祖父が言った言葉。
本当に人前で姦淫の罪なんて告白する人がいたの?これ、教会を出た瞬間、他の女たちからも無視されるだけな気がする。他人の夫を奪った女なんて妻側にしても許せないし、他の女性たちもいつ自分の夫をとられるかわからないから、告白した女を褒めたりしないと思うんだけど。正直、全くわからないシーンだった。
『「だって、雄鹿が雌鹿のうしろから跳びついているんですから。それに、木ややぶのようすを見れば、鹿が交尾する季節だってこともわかります」』297p
リトル・トリ―が孤児院で、教室内で鹿の写真を見て言った言葉。女の先生は怒りだしてリトル・トリ―を院長室へ連れて行く。
敬虔なキリスト教は『交尾をせずに子をなす』のだろうか……。という、感想は脇に置いておくとして、わかりやすい描写で、このシーンの為にこの作品があったのかなと思う。他のシーンも面白い部分だけつまみ食いしてる感じだったけど、このシーンも物語としては面白い。
そして、この件も含めてリトル・トリ―は結局、孤児院から放り出されて祖父母の元へと戻ることになる。
孤児院行きは行政の強制だったのに、孤児院側では「もう、子供が増えるのは困る」という状態でリトル・トリ―は戻されるけど。この孤児院も有色人種の孤児院なのだろうか?孤児院は白人も有色人種も混合?どこまで、隔離政策の対象だったのだろうか。そして、インディアンもインディアン混血も孤児院ではリトル・トリ―だけということは、インディアンの数自体が少ない地域なのだろうか。それとも、もともと少なすぎて出てこないということ?
インディアンの減少についても、作中では特に書かれてないし、問題視もされてない。すでに白人文化に染まっていて、混血になっていくのは必須だから問題視もしてないということなのだろうか。あれだけ争ったアメリカやメキシコに対して何の思いも出てこないのどうなのかなと思うけど、世代が変わってるから特に何も思いがないのだろうか。
「からだの魂」と「霊のこころ」というものが出てくるけど、これがまた表層的でなんかズレてるような感じがしてしまう。他の文化圏の価値観って、なかなか理解できないんだよね。話は変わるけど、『殺人容疑 作:デイヴィッド グターソン』の作品でも日本人が出てきて、日本的価値観の話もあったけど……何か違うものになってた。作者がアメリカ人で日本について調べて書いたらしいけど、『調べて書く』以上の理解って難しいんだろうなと思う。そういう違和感を『リトル・トリ―』からも感じる。
ただ、『そういうケースもあっただけ』と言われたら、それまでだけど。でも、違和感の部分が多すぎる。インディアンのルーツを持たない作者が書いたインディアンの話。
もう、いらない。
ごちそうさまでした。
『リトル・トリ―』