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「殺人容疑」を読んで

2025/03/07

殺人容疑 (講談社文庫) – 1996/9/1
デイヴィッド グターソン (著), David Guterson (著), 高儀 進 (著)

殺人容疑 (講談社文庫)

「殺人容疑 作:ディビッド・グターソン 訳:高儀進」を読んでみた。

猟師が死んで日系アメリカ人のカズオ・ミヤモトに殺人容疑がかけられたという物語。人種差別について書かれている小説ということで期待して読んでしまったのだけど……正直、肩透かしを食らってしまった。
『事件・裁判』と、『事件関係者たちの過去』が入り乱れて書かれていて、人種差別もあるけどメインはそこではない感じ。人種差別も、なんていうかザラザラしたものを感じる。『キャラがそう感じている』のではなくて、調べた結果、おそらくこう感じるだろうというものが散らばっている。
日本の文化や価値観も出てくるけど、翻訳のせいなのか原文がそうなのか、『日本文化らしい何か』や『日本的な価値観っぽい何か』に変容してるような気がして、これはどこの国の話をしてるんだ?と思ってしまった。それとも海外に暮らしていたら、『日本のこと』はまだら模様になるからこういう価値観や文化になるしかないのだろうか。

日本についての話は『どこか異国っぽい』感じがしてしまうし、差別に関しても『露骨な差別』ではなくて『薄っすらとした分かりづらい差別』があちこちに散らばっていて、これを読み取るにはそれなりの知識も必要だろうなと思ってしまった。さらにこの人種差別に女性差別まで乗っかっていて、『わかり難さ倍増』な感じがする。

特に白人少年(ハツエの幼馴染・イシュマエル)と日本人の少女(カズオの妻・ハツエ)の恋愛の部分は、いろんな要素が絡まりすぎていて『人種の差』が表に出てるけど問題がそれだけではないという複雑さ。……恋愛小説を読んでたかなと思ってしまった。

読み終えたら、この二人の恋愛を軸にハツエの夫が捕まるという事件が起きて、偏見の入り乱れる裁判が開かれるという物語だなと思った。主人公はイシュマエルで、新聞記者として事件の取材をしているうちに重要な証拠と事実にたどり着く。
かつては恋人のようだったのに、ハツエはイシュマエルを振って、カズオと結婚。イシュマエルはハツエに執着し続けている。島の住民たちのように自分には偏見がないと言いながら、イシュマエル自身も偏見からは逃れられず、カズオがいなければ……と思ってしまう。

ただの三角関係というか……ストーカーと言うか。男の未練と言うか……そういう話なのかと終わりを読んでがっかりした。


気になった部分。
『ホレスは、お馴染みの羨望の念が沸き起こるのを感じ、われ知らず、カール・ハインの性器の大きさと重さに注目した。この漁師は包皮を切除していず、睾丸の部分はピンと張り、毛がない。睾丸は、冷たい海水の中で体の上のほうに持ち上がっていて、左脚にくっついているピンクの太いペニスは、凍っていてさえホレスのそれの少なくとも二倍はあった。』76p
これは死体解剖のシーン。カールは死体。ホレスは検屍官。死体を見てもそこを比べるの、意味が分からない。事件に関係あるのかなと思ったけど、この後は死体の性器は全く出てこなかった。

『「おれは、ミヤモトたちの目がどっちに吊り上がっていようと、全然かまわない。』172p
アジア系人種は吊り目……という差別を知ってないとスルーしそうだった。日本にいて日本人差別はされないので、こういうのわからない人もいそう。

238pあたりに、「残心」といって木刀を振るシーンがあるけど、剣道ってそんな掛け声をするのかな。私が聞いたことがないだけ?さらに神風連の話も出て来てたけど、調べたら少し違う感じだった。でもこの辺りは物語にそこまで大きく関わってないので、単に私が気になっただけ。

『白人は、他人と別になろうとして必死になるけど、あたしたちは〈大いなる生命〉と一緒になる事を求める』285p
これはハツエの母親がハツエに言う言葉。『あたしたち』とは、日本人の意味。いや。わからん。『大いなる生命』ってどんな価値観?仏教?神道? この前に『(わたしたちは)自分独りだとなんの価値もない、強風に吹かれた塵だってことがわかっている』ともあるけど……日本人の価値観?それ、何?平家物語の【風の前の塵におなじ】みたいなこと? いや、あれは栄枯盛衰で、個人の話ではないよね?わからない。

『ほかの女たちの前で用を足すとき、気が挫けそうになったけれども。いきむときに顔が歪むのがフジコにとっては屈辱的だった。フジコは便器に座って頭を垂れながら、自分の体が立てる音を恥じた。』307-308p
収容所でのハツエの母親・フジコのトイレシーン。品位ある人は『顔の歪み』すらも人に見せたくないのか。……私、その品位がないから、すごいなと思った。音が恥ずかしいのはそうだなーと思う。でもその前に、『人に見られながら』なんだよね。出ないよ。出せないよ。切羽詰まって出した時には、音も大きいし、恥ずかしいし、死にそうになると思う。

『午後の早い時間にイシュマエルは、海岸のほうから漂ってくる甘いようなにおいが、死んだ海兵隊員のにおいであるのに気づいた。』347p
ハツエの幼馴染イシュマエルが戦場に行ったシーン。仲間がどんどん死んでいって、助けることも無理で陰に隠れていたというリアルが書かれてる。足が千切れて波間に漂っていったり、撃たれた仲間がしばらく呻いていたり、と、グロイ表現が満載。
でも、死臭の表現が一番、リアルだと思った。死臭って最初は『甘い』のよ。次に酸化した油のようなにおいが混ざってくる。古い食用油のニオイでもいいけど……いや。語ってる私もヤバい人になるな。腐肉のニオイはすごいよね。さすがに人間が腐るニオイはまだ知らないけど『肉が腐る』くらいなら、誰でも経験できると思う。

そして、これだと思った。『同志少女よ、敵を撃て』に足りなかったリアルさ。戦場で一番リアルなのは火薬のニオイではなくて、血肉と腐肉のニオイ。火薬のニオイで済むのはサバイバルゲームだけ。

『棒で戦う日本古来の武術の専門家の観点から』400p
剣道が棒で戦うことになってるの面白いなーと思う。でも、木刀は確かに木の棒だから間違いでもないのか?うーん。でもなぁ……と思うのは、私が日本人だから?なんだか、『棒で戦う武術』って書いてあると、馬鹿にされてるのかなと思う。いや。これも差別としての表現なのだろうか?……何が差別表現なのかがわからない。

『あの男の証言について、あなたの新聞に書いてよ、すべて公正じゃないってことを。裁判全体が公正じゃないってことを』456p
ハツエがイシュマエルに裁判の不公平さを訴えてる。一人の男が「あの男(カズオ)は人を殺せる」と証言したことに一番苛立ちを募らせてるシーン。
裁判にすら偏見と不公平感満載に運んでいくのは面白いなと思った。そして、平和な時代に生きる者としては『戦争に行って人殺しをさせた(カズオは戦争に行っている)』のに、それを忘れたかのように「あの男は人を殺せる」って戦争への皮肉のようにも見える。戦争に行かせたのは国なので、戦時中の殺人は『兵士同士』の場合は許容されてるのに。良し悪しや正義は別として。

『自分がみじめだってことについて、おまえがすべきことは、結婚して子供を作ること』489p
イシュマエルの母がずっと独身でいるイシュマエルにいう言葉。
時代だなぁと思うと同時に、そうしなければ生きられない時代でもあるんだよなとも思う。良くも悪くも家族がいないと人は生きてこられなかった。この後、イシュマエルも『母が死んだら一人になる』と気が付いたとなっている。一人にならないためにも家族は必要なのだろうけど……。個人的にはやっぱりモヤっとしてしまうな。

最後にはイシュマエルが『事故』の証拠を提出して、カズオは釈放される。それをハツエは喜ぶ。
イシュマエルはそれを記事にする……。というもので終わっていた。

ただ、これ、皆がそれぞれ『推理』していくものではないし、証拠を見つけたのも思いつきの偶然みたいな形で『それを探していた』わけでもないのよね。この辺りがモヤっとする。
裏表紙には『裁判小説』と紹介されてたけど、確かに裁判シーンも臨場感あふれるやり取りが描いてある。でも、それはあくまでも『裁判』としてで、裁判内で推理が展開されるわけではない。それそれが知りうる『事実』を確認していく形の中に、偏見も紛れているというだけ。

やっぱり、メインは『ハツエとイシュマエル』の恋愛だと思う。最初はよくわからないまま進んでて、途中から二人の話がやたらに入ってきて何だこの物語……と思ったけど、これが恋愛ものだと言われたら納得する。カズオの事件はそのオマケ。

解説には作者は純文学を書く小説家だとあった。性的な話がやたらと入ってくるのもそのせいだろうか……と思ってしまった。もちろん、恋愛には性的なものも必要だけど、死体の性器はなんだったのかとは思う。
私が期待していたのは『人種差別』の部分だったので、見事に裏切られた気分。
特に恋愛の『あなたが私の中に入って、私は違うと気が付いた』というハツエの感覚は、白人だからではなくて単に『兄弟のように育って来た男が自分の中にいる違和感』だと思う。でも、この時にイシュマエルは逆に『ハツエしかいない』と思い込む。このすれ違いがすごいなと思った。


そして、この小説の舞台は『雪に閉じ込められた裁判所(街)』でもある。……ちょうど、寒気到来で現実も雪まみれ、寒すぎて眠れないって一緒だねと思いながら読んでしまった。

描写は細かくて綺麗。

期待した分がっかりしたけど、恋愛もの・事件としてはそれなりに面白いと思えた。人種の壁と時代と文化、様々なものが混ざり合っていた。
ごちそうさまでした。

『殺人容疑』