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「わたしは「セロ弾きのゴーシュ」」を読んで

2025/02/14

わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと
単行本 – 2021/10/25 中村 哲 (著)

わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと

「わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと 著:中村哲」を読んでみた。
わたしはマララ』で出てきた場所と重なっている。マララさんはパキスタン側だったけど、これはパキスタンからアフガニスタンに入って活動した医師の話。両方の国にまたがっている。
井戸を作っていたということぐらいしか知らない……。初めて読む中村医師の本。

第一章 ハンセン病根絶を目指して
最初は、ハンセン病撲滅のために活動していたという話。ハンセン病。病状が徐々に悪化していく病気と言う事と、見た目が悪くなることで昔は恐れられていて隔離されていたという話ぐらいしか分からない。ただ、この本を読むと靴……サンダルで病状が抑えられるという事が書かれていた。足。足からダメになるから、足を大切にということらしい。

『現地で本当に役立った働きをしたことが主に二つありました。
一つは、その土地の文化、あるいは風習に合わせて何かをするということが大事なポイントで、現地でハンセン病のコントロールという立場から非常に厄介なのは、女性を隠す習慣がある事。(略)どうしても女性の患者は女の人が診なくてはいけないということで、看護師さんたちが行かれて、非常に大きな働きをされた。
もう一つは、現地に合った技術ということ。(略)まず、日本で通用するような医療機器というのは、現地ではあまり役に立たないことが多いんです。
そういう意味で、シルバーボランティアと言いますか、わりとお年の行った方が現地で役に立った。何も物がない時代に、ある物で工夫して何かするというトレーニングが十分できておる人たちでして、こういう人たちが工夫してしたことは、代々、現地で受け継がれて続くんですね』28-29p
女と老人が役立ったという話。ただこれは、『女老人は役に立たない』という偏見が元になってる言葉でもあると思うので、なんていうか……無意識の差別意識がそうではなかったという話にも見えてしまった。ただ、老人については別にそんな能力が欲しかったわけでもなくて、『それなりに物があった時代』から『何も物がない時代』に放り込まれた世代だったというのもあると思う。こう言っては何だけど、奪われた時代だったからこそ、そこに知恵と工夫を持ち寄って『どうにかするしかなかった』という時代背景を考えると、もやっとするものもある。

『逆に、生きておるというのは、自分の意思で生きているのでなくて、生かされておるという感謝の気持ちと表裏一体なんですね。(略)
人が生きて、死ぬということの意味を日本人は忘れているんじゃないか という気がときどきするんですね。』44-45p
この前に、片足なら生活ができるから助けるけれど、両足がダメになった場合は生活が出来ないどころかこの人が生きるために、一家全体が破滅することもあり得るので助けない。という話や、肺炎で死にかけた赤ん坊に何もできないけどせめて楽にするためにシロップを一杯与えたら、家族から感謝されたという話が書いてある。
それと比較するように、日本では両足を失くして助けないというのはダメだし、死にかけた赤ん坊が死んだら感謝もされずに責められるということも書かれていた。
なんていうか、『良いこと』に聞こえる意見だし、ある意味ではそうだなと思うけど、そもそも『生きていることが当たり前』で『医療が当たり前』の世界だからこそ、この人は医師になれてるんだよね……ということも感じる。
この山奥の貧しい場所で生まれていたら、この人は医師になれていたのかといったら、まず無理なわけで。この話はいろんな意味で本末転倒で、『医療がないから』こそ『命の価値が上がる』事を考えると、何とも言えない気持ちになる。
悲しいけど、『医療が当たり前』の世界では『命の価値』は相対的に下がる。だって、死が遠すぎるから。医療はそういう役目を果たしてしまっている。それだけの話。
だから、この山奥の地域でも医療が当たり前になったら、命の価値は相対的に下がると思う。日本がおかしいわけではない。『手にしている環境』の違い。

第二章 もの言わぬ民の命を
2000年の6月からアフガニスタン一帯は旱魃で飢餓状態の人が増えているという話。
たしか『マララ』の本にもちらっと出ていたような気がする。でも、マララさんは裕福な(町に住む)人なので、それほど大きく書いてなかった。この本を読むと、かなり悪い状況だったことが分かる。だからこそ、命を救うために井戸を掘ることになったという話。
緑化も進んだから褒めてほしいというのは可愛いと思ってしまった。と同時に、国際社会が『都合がいい部分だけ支援する』という怒りも見える。
マララさんがその『都合のいい女の子』だったんだろうな……とは、思う。ただ、それでもやっぱり『女の子への教育』は必要だし、他の部分を『国際社会にとって都合がいいだけだ』と切り捨てるのも違うと思う。

第三章 アリの這う如く
井戸だけではなくて用水路建設も始めたという話。
話が壮大になっていく。水のある場所を把握して、どれだけ使えるか計算して、どうやって水をひくかを考えて……医者の仕事の範囲を超えてる。
ここで、『セロ弾きのゴーシュ』のような生き方になっていたという話が出てくる。
患者の話を聞いて、少しでもできることをやり続けたらこうなったと……。でも、それができる環境が与えられてる事がすでに『奇跡』なんだよな。大半の人は、やりたいと思ったことができる環境はない。さらに先進国になるほど、求められる能力が高すぎて『出来損ない』と思わされることが多すぎて、『存在価値がない』と思う人が増えてるだけだと思う。

『特に先進国の中で。自殺というのも命を粗末にすることです。人が産まれてきて、生きて死ぬという実感を、みんな、なくしつつあるのではないか という気がするわけですね。』108p
この『生きて死ぬ』実感はもっと言えば、『誰かの役に立っている実感』だと思う。人間は人の間で生きるのだから、誰かと繋がっていないと生きられない。でも、先進国は人を繋がなくても生きられる環境を提供して、『生きる実感』を奪ってる。『自殺』は命を粗末にしてるわけではなくて、『生きる実感を奪う環境で、人は生きられない』というごく当たり前の人間の生態を表してるんだと思う。人間が元々社会性を持たない生き物だったら、問題がなかったけど、社会性を持たなかったら知性もここまで伸びてない。社会性の発展の先が、『社会性が無くても生きられる社会』で、そこで生きていけないっていうのはどこかでこれ実験してる存在がいるんかなーと思えるくらい皮肉だなと思う。

同時にこういう話はもう出尽くしていて、今の時代はもう少し先の『人間には何が必要』で『先進国は何を失って、何を得たのか』『人間の未来はどうなることが理想か』みたいな話の本も出てるんだよね。もちろん、意見は色々あって、結論が出てるわけでもないけど。
水路や井戸、干ばつやそこにいる人たちの生活や価値観の話は興味深いけど、こういう『教訓じみた言葉』は違うなぁと思ってしまう。

第四章 命の水
灌漑を始めて、水が通ったという話。
土地の長老たちに話を通したり、自力で日本の農業土木の技術を取り入れたりと、アクティブ。日本は都市用水が中心で農業土木の技術者はあまりいないとなってた。……そうなのか。
蛇篭を置いて、柳を植えて、護岸を補強して水路を作る。……川の傍に柳があるのは、そういう意味だったのかと思った。読んでて楽しい。蛇篭も昔は竹籠。今は針金で作って石を詰めると。
さらに植える作物もケシ畑が今は多いけど、それをやめてお茶に切り替えるようにしていくと。利益率が一番いいのはケシだから農民たちはそれを作っている……そうだね。ケシほど利益率が高い植物はない。ただ、精製はかなり手間だというのもどこかで見かけたけど。あと、違法だからケシ畑は良くない。

そして、水が来て一番喜んだのは女性。今までは泥水だったから、『異物が沈殿した後の綺麗な上澄みの水』が出来るまでまつ必要があったけど、それがなくなったと。……え。泥水を『異物沈殿するまで待ってから使う』っていう方法に驚いた。いや。その方法、おままごとで使ったけど、あくまで『ごっこ遊び』だから出来たことで現実の料理で使うのは。。でも、そういう水しか手に入らないんだよな。うーん。色々と驚き溢れる章だった。

第五章 難民と真珠の水
用水路が徐々に完成してきているよと言う話。
試験農場で試しに育てて、何がこの土地に適してるかを探しているけど、良いものは盗られていくという。サツマイモもとられていく。だから、『蔦もとってはダメだ』と言うと、蔦まで取っていく……という作戦が面白い。こちらから「これはいい。みんなで作ろう」ではなくて、収穫祭として食べてみて、美味しいから『畑から盗っていく』という状況を作り出して、「蔦でも作れる」からということも『盗るな』と言いながら、教えてる。とんちみたいだと思ってしまった。
用水工事に関わった人たちも現地の人たちがほとんどだけど、タリバン兵や反タリバンの傭兵など対立してた人たちも一緒になって作業していたというのも……農民が食えないから傭兵になってあちこちで仕事をしてただけで、人殺ししてまで食っていきたいわけではないというのがリアルだなぁと。食えなきゃ人殺しもするけど、食えれば誰もそんな事をしたくないって、貧困層で治安が悪い場所の人たちほどそういう意見なのを見かける。

『みんな、満足に食べられて、家族と一緒におられる、これ以上のことは、ほとんどの人は望んでいないんですね。』186p
こういうの真理だなぁと思う。でも、たぶん、こういうのは難しいんだなと思う。先進国はすでに難しいから産まないという選択になってるし、途上国も先進国の代理戦争や環境負債の押し付けにあっていて、簡単ではなさそうだなと思う。


第六章 開通した命の用水路
用水路が開通した話。利権のあれこれには苦労したという苦労話も。でも、こういう『水路』の話は上流側が有利で下流に行くほど不利になって、格差みたいなものが出来ちゃうんだよな。開通した、よかったっていう話で終わらないのが『水』のやっかいなところ。
治安も悪化してしまって、援助が難しくなり、井戸は水位が下がってしまって、使えないところが増えてしまい。井戸の建設はやめたとも。
治安悪化に、環境も悪化。水路は完成したけど、利権だとかあれこれの調整はたぶん、この先も難しいバランスで成り立つんだろうし……という問題だらけな感じで終わってしまった。

終章 来る年も力を尽くす
来年(2020年)も頑張るという会報に載せた言葉が最後に書いてあった。会報発行時にはもう、亡くなったという一報が入ってきていたと。亡くなる前に送られてきた言葉。

人間、死ぬなんて思ってないものね。来年もあると思って言葉を残す。でも、亡くなってしまってる事を知ってると何とも言えなくなるな。


マララさんとは別角度の現実を読んだ気分。でも、だからと言って、マララさんの言う『女の子に教育を』が間違ってるわけではない。そして、残念ながら、『男性には見えない世界』が常にあると私は思ってる。著者が男性の時、私は『女性もこう思ってる』『女性たちが助かってる』『女性たちが喜んでいる』という言葉は半分しか信じないことにしている。

だって、女性は男性には言えない言葉がたくさんあるから。これは別に女性蔑視だとかそいういうことを言いたいわけではなくて、男性だって『女性に言えない言葉』があるのと同じで、男女差別が酷い場所ほどそういう『言葉にできない言葉』も増えるというだけ。

『嘘ではないけど、本当ではない』みたいな、曖昧なものが世界にはたくさんある。

でも、そういうものを差し引いても読みごたえがあったし、興味深い話がたくさんあった。
他の本も読みたくなってしまった。

ごちそうさまでした。


『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』