ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ
– 2020/1/21 遠藤 まめた (著)
「ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ 著:遠藤まめた」を読んでみた。
図書館で借りた本。
LGBTについて書かれている。WEBマガジンで掲載された内容を編みなおして、加筆したものとなっている。
そのWEB記事のいくつかは読んだ記憶があるので、読んだような話も混ざっていたような気がする。
『はじめに』では、自己紹介と本の紹介がさらりとされている。
序章 性の当事者
LGBTについての簡単な説明と『性の4要素』が書かれている。
本の説明とは少し違うけど、簡単にメモしておく。
1.生物学的な性 体の性のこと
2.性自認 自分が認識している性別。
3.性的指向 どのような性別に恋愛的・性的魅力を感じるか
4.性表現 立ち振る舞い言動など。
21pに『性はグラデーションという表現がよく使われる』とあるが、これを身体的な意味で使うと性的未分化の人たちを傷つけてしまうので使用には注意が必要だとツイッターで見かけた。
本に書いてあるのは、『体』ではなくて『性的指向』についてなので、そこまで気にしなくてもいいのかもしれないけど、ふと思い出してしまった。
第1章 時事から読み解くLGBT
時事ネタがいくつか載っているが、正直、もうお腹いっぱい。こちらの本やこっちの本で批判に対する批判があったものが、こちらでは『批判』だけを目にしているだけな感じだった。個人的にはこの本の意見の方が好き。
そして思うのは、『どちらに共感できるかで、意見は変わる』のだなという事。
例えば、杉田水脈「生産性発言」などは他の本に書いてあるのは『批判した人たちのせいで、この雑誌が廃刊することになった。酷い事だ』という事だった。
対してこの本には、若い当事者が不眠や自傷に追い込まれたとある。
どちらも『酷い』と思えることを書いてある。あとは、これを読んだ人がどちらに共感するかで意見は変わる。立ち位置が変われば、自傷するような子はもともと弱かったと切り捨ててしまう事も出来てしまう。
差別を訴える意見に対して、『その程度大したことがない。それよりもそれによって不利益を被ったこちらの方が、酷い目にあっている』と言えてしまうのは、弱者に共感できないほどその人たちも追いつめられているとも言える。
もしくは、自分もその弱者に入っていることを認めたくなくて、さらに弱いものを叩くこともあるという。差別の問題は一筋縄ではいかない。複雑にいろんなものが組み合わさり、最下層の弱者が踏みつけられる。
女子大の話も書いてあった。これもあちらの本にあった話題だ。トイレ問題に特にページを割いていた。
この本でもトイレをどうするのかという問いに対して、「今までだってトランス女性は女性トイレを使ってきた」と書いてある。それはそうだろう。女性に見えれば、誰も文句を言わない。しかし、女性に見えなければ、生まれた時から女性として生きてきた人でさえ怪訝な顔をされる。それは、今も昔も変わらないと思うので、私もトイレに関してはトランス女性だけを問題に出すのはどうかとは思う。しかし、それに便乗する『トランス女性と偽る男性』をトランス女性たちはトランス女性と受け入れられるのだろうか。そうなってくると、私は受け入れられない。
著者の女子高生活のあれこれもここに書かれているが、この大半が私はそうでもないよと思ってしまう。
生徒会長は女性もいたし、農家なので重いもの持つの当たり前だった。むしろ一般社会の『女性は重いもの持たなくていい』に驚く。30キロの米袋を持ち上げ移動させるぐらいは出来るの当たり前が農家。女性(一部男性も)に30キロは法的にアウトなのが一般社会。
10キロぐらいで「大丈夫?」と言われた時は、え。何の問題があるの?と思った。
そして、女子校の同性カップルは『環境によるところ』が大きいのではないかとも思う。 同性しかいなくて、その付き合いも否定的に捉えない環境ならそうなるのでは? 異性が半分いる環境で同性愛が否定的でない環境と比べると比率はどうなるのだろう。(その環境がないから比べられないけど)
同性愛を否定してるわけではなくて、同性しかいないなら同性に目が向く率が高まるのではないかという疑問。
同性婚訴訟の話では「同性婚を使わない」『マリッジ・イクオリティ(婚姻の平等)』という事も書いてあった。
なるほど、確かに『同性』とわざわざつける必要はない。知らないうちに、必要ないところにまで名前を付けて分断しているんだなと思った。『全ての人に結婚の自由を』でいいのか。
コラムのLGBT報道についてのあれこれもよかった。
ステレオタイプを求められる。とか、間違った性別で呼ばれる、LGBTで一括りにする事で必要ない属性のマイノリティまで含まれてしまうとか。
実名報道についても書かれていたけど、これはおそらくLGBTだけに限らず、様々な点において悩ましい部分があると思う。とはいえ、トランスや同性愛者だという事がばれる可能性もあるので、それはそれで問題ではあるのだけど。
第2章 トランスジェンダーとフェミニズム
最初の『「間違った性別のせい」を疑え』がよかった。男性になったら、周囲の対応が変わったが、よく考えると『女性であっても、そのような行動や態度でも良かったのでは?』と考えた話。
喋り方、座るときに膝を揃えない、歩き方、カバンの持ち方、髪の長さに対して、全てOKになった。中には好ましいと言われるものすらある。女性の恋人の話も普通に扱われる(著者はトランス男性)
同じことが、トランス女性にも言えるよね。お化粧、好み、etc……男性のままそれを好きでも良いんじゃない?と私は思ってしまうけど、トランス女性の話は『お化粧できる。嬉しい』みたいなものしか見かけないのなんなんだろうなと思ってしまう。
さらには『女性は差別されて当たり前だから、その覚悟でトランスしなきゃ』みたいなのを見かけた時は、ありえないと思った。差別される覚悟ってなんだ? それまで持ってた特権を手放す自分に酔ってるのか? 女性への差別はあり得ないよねという話に向かわないの気持ち悪い。
それにしても、女性への抑圧もすごいものだな……と思いながら読んでしまった。トランス男性は『社会的女性からの抑圧の解放』されるという話になりそうだけど、それ、一般女性も求めてるのでトランス男性だけ一人で抜け出さないで(引き留めるわけじゃないけど、女性の抑圧解放にも動いてほしいと思ってしまう)
さらに話は『フェミニズム』に進む。簡単に言えば『社会をよくするための活動(端折りすぎ)』となっている。これが、フェミと揶揄されるのは差別構造が社会にはびこっているから。社会をよくするのはこの『差別構造を知って、少しずつでも改善するため』
ビアンとゲイのそれぞれの結婚理由も壮絶だ。女性同士では食っていけず、男性と結婚。男性は、実家の山を継ぐために跡継ぎが必要で結婚する。それぞれは別の話なのだが、男女の賃金格差に、長男の家問題と社会の根底にある問題が同性愛者たちにも、のしかかっている。
最後にトイレの話が出てくる。
そこでは、当時の恋人が男女別のトイレを使ってショックだったとある。『男女同じトイレを用意してあるのに、遠い場所の別々のトイレを使うなんて』ということなのだろうけど。これはちょっとなと思ってしまう。
『世の中には一定の割合で女性向けのトイレしか使いたくないという女性が存在する』p106
とあるけど、これもなんか違うなと感じる。
というのも、女性が女性向けのトイレを使うのは日々『男性の脅威』にさらされている自覚があるからだ。小さなことであれば、平気で女の体に触ってくる男はそこらにごろごろしている。痴漢に会ったことがないなんて奇跡か、ド田舎住まいかのどちらかではなかろうかと思うし、ド田舎であってもセクハラは平気である。(むしろ多い気がする)
私が女子寮に住んでいた時に男性が『トイレを貸してくれ』と飛び込んできたことがある。寮長さんが「ここは女子寮なので貸せません」と言っているにもかかわらず、その男性は「緊急なんだ」と言い張り、トイレを使っていった。(寮長さん(男性)が使うトイレだったので、女子たちが使うのとは別のトイレ)
ついでに『すぐそこに公衆トイレがある』という事を伝えても、『緊急だ』で押し通していた。こういうのは、本当に気持ち悪い。
男たちが女性から『男性への信頼』を奪っていく世界で、『女性向けトイレを使いたい女性』はそんなにおかしなことだろうか?と思ってしまう。
トランス女性を女子トイレから排除すべきではないという意見は一理あるが、『男性に見える人間(または男性器を持つ人間)に不安を抱く女性』を差別だというのも違うよなと思う。
そして、『今まで使っているからいいだろ』というのもまた違う。小さなコミュニティで『全員の同意』や『信頼』があるなら別だけど、不特定多数の場では『不安』に思う人もいるという意識は必要。
私が『トランス女性を女子トイレから排除すべきではない』という点に同意するのは、そこには『男性に見えてしまう女性』が含まれてしまうからであってトランス女性が女子トイレに入っていいという意味ではない。男性に見えてしまうトランス女性はご遠慮してほしい。なぜなら、『男性に見える女性』が通報されたり、今までよりも過剰な対応をされる可能性があるからだ。今まで、ちょっとぎょっとしながらも、『女子トイレにいるなら女性』と思ってもらえていた女性たちが『男性がいる』という騒ぎの中で女性であることを証明しなくてはいけなくなるのは辛すぎる。
そのような点からも『トランス女性を排除すべき』という言説には注意が必要だと思っている。ただし、『トランス女性だけど女子トイレに入れた』と自慢するトランス女性は排除したいと思う。そのような人たちが『トランス女性を排除すべき』という言説にさらに火をつけるからだ。『トランス女性を女子トイレから排除すべきではない』という人たちは、『女子トイレに入って自慢しているトランス女性』に注意していって欲しいとすら思う。
ただし、海外ではすでに女性への暴力などの問題が起こり、一律禁止の国もあるようなので日本は50年ほど遅れて女性の暴行事件を多数出した後でそうなるだろうなと予測する。女性に被害が起きた時、トランス界隈は『それは個人の問題』として切り捨てるだろう。男性優位社会の定めですね。
著者自身のトイレ問題も書いてある。
『外見が男性にも女性にも見えてしまう自分のようなタイプは、性別で分かれたトイレは非常に使いにくいものになってしまう。自分のことを女性とは思っていないから、女子トイレは使いたくない。かといって、混んでいる男子トイレを堂々と使うほどの外見でもないから、どうしても空いている男子トイレや、男女共用トイレをもとめて、日々さまようことになる。』p102
ん? 恋人が共用トイレを嫌がったのには驚くのに、混んでいる男子トイレを使えないのってなぜ? 通報されるという事? 男性たちは『女性に見える男性』を受け入れないという事?
だったら、同じことが女性にも言えるはずだよね?? と思ってしまった。男性たちが『女性に見えるトランス男性』を受け入れてから、女性にも同じことを言ってほしいわと思ってしまった。パス度とか、見た目とか条件があるならそれはしっかりと明記してくれないと図に乗った男性が『トランス女性』を名乗って女子トイレに入ってくるのだから。(堂々と男として入ってくる男もいるが現状では通報ができる)
『どこかの誰かが犯した盗撮や痴漢、セクハラの責任を、今日もトランス女性たちは押し付けられている』p115
それは『男性』が常に背負わされているもので、それを『出生時男性』だったトランス女性たちも背負っているだけ。不条理だというなら、そもそも『犯罪を許さない社会』『セクハラを許さない社会』を作ろうという方向へトランス女性たちも『女性として』向かわないとおかしいわけで。
日本の現状は『痴漢くらい』『盗撮くらい』『セクハラくらい』と全てを軽視している社会ですけど、それについてはスルーで『トランス女性は押し付けられている』というなら、女性は『痴漢くらい』と尊厳を冒され続けていると訴え返したくなる。
トランス男性の性被害の話も書かれているけど、これは『男性』への対応がそうなるという話で日本のジェンダー平等がまだまだ進んでいないことの表れ。『トランス男性』が問題なわけではない。
『トランスジェンダーも性暴力に遭う』のはそうなのだが、その前に『男性も性暴力に遭う』という話だと思う。
トランスの話をする時はそれが、『性的役割』から来るのか、『トランスの身体的事情』なのか『さらに別の要因なのか』を分けた方がいい気がする。
この話から、『トランスジェンダーを叩く』と言われても、その前の『男女差別の問題』が『トランス女性と女性への問題に波及しているだけ』としか、思えない。
『トランス男性と男性の問題』が起きないのは、トランス男性自身が危険を感じて『男性トイレに積極的に入る』という事をしないからなのではと思う。同じように『トランス女性もしてくれるはず』という性善説は残念ながら『身体男性』には期待できない。
大学が『トランス女性』を受け入れる発表をしたとき、男性の中から『俺も女性になって大学に行こう』というような言葉が出てきたというのも見かけた。これ、男子校が『トランス男性』を受け入れたら……トランス男性たちは男子校に行きたいと思うの? まずはそこから議論してほしいと思ってしまう。
トランス男性は男子校に行かないけど、トランス女性は女子大に行きたいと思うならそれはなぜかと考えたら……女性たちがトランス女性に不安を感じるのは当然だよねと思ってしまうけど、なぜ議論はそこまで広がっていないのだろうか。
一応書いておくけど、『トランス女性受け入れ大学』への批判ではありません。その大学に通う人たちがしっかりとその不安を話すことができ、大学がそれに対処できていればいいと思うので。対応できないならダメだよね。
第3章 私たちが生きる多様な社会
恋バナが盛り上がらなかった話が面白かった。
若いLGBTを集めて、何か話をしようとして『恋バナ』を選んだのだが、「理想のデートコース」という話が爬虫類の話に変わったというもの。恋バナをふられたら苦しいというのは私もわかるな……と思ってしまった。私が若い時もそこまで恋愛一筋でもない上に、どちらかといえば『興味がないジャンル』なので、爬虫類の話をされた方が気が楽だと思う。
中学生の相談で『異性にドキドキするけど、同性の友人が引っ越してから毎日考えてしまう自分はバイセクシャルなのだろうか』というのもいい。
「好き」にはいろんなかたちがある。君の宿題はたくさんの人に会わないと解けない。
というような回答。
否定せずに決めつけない。そして私も『たくさんの人に会わないと、自分の感情がどのようなものか分からない』というのは分かる。ひきこもりなので、私の場合は未だに分からないけど。
若者の「種の保存とLGBTの関係についてどう思うか」の質問にも真摯に答えている話があった。
ただし、これには続きがある。これが『大人』だったり、ネット上で相手が見えないやり取りだったら、こんな風に答えていないかもしれないというのだ。
最近、同じような事例を見かけて『ちょっと失礼な質問』に対して、苛立ちをぶつけるリツイートをしてる人が多かった。しかし、高校生というプロフィールを見た人が丁寧に教えていて、高校生は納得していた。
ネットだと相手の素性なんてわからないから『純粋な疑問』なのか『悪意ある質問』なのか、見分けがつかない。それでも、その中にも『純粋な疑問』はあると思う。
それと、年を取ると『偏見』が強化されて『純粋な疑問』には程遠くなるというのもある。もし、その疑問をずっと持ち続けていたなら、そのために必要な情報はある程度『蓄積』されていって、『ある程度、配慮ある質問や言葉』を選ぶようになるから直截的な言葉を避けたり『誰でもいいから聞いてみる』という事はしなくなる。年を取った人間の『純粋な疑問』は、ただの『純粋な偏見』と化す。
さらに最後には、『LGBT』を学び始めた人が、それを知らない人たちに対して『そんなことも知らないの?』と怒りがわくという事が書かれていた。これは別にLGBTに限らず、あらゆることに言えると思う。『〇〇に興味があるなら、この情報も知っているはず』と思いこんだり、『大人ならこんなことは常識のハズ』と子供が思ってしまったり。
差別や人権、その他のあらゆることに言えるけど、『〇〇に興味があっても、それを知らない人たちもいる』という事は頭の隅に置いておいていい。知らない人に対して怒るのではなく、『こういう情報・知識もありますよ』と提示して、あとは相手に任せておく。
ただこれが、『気が付かなければ分からない』という知識や情報とは少し違ったタイプのものだと、『差別を知りたくて本を読んだ』という人が『女性が料理をしないなんてありえないよね』と言い出したりする。
そして、それが差別的発言だとは一切思えず、指摘されても『何が問題か分からない』という事があったりする。知識や情報で、それまでの常識(または、それまで良しとされたもの)との差を埋めるのは難しい。
『おわりに』には、金子みすゞのことが書いてある。
NHKの番組でちらっと聞いた情報では、若くして自ら死を選んだというような事だったが、子供の親権まで奪われていたのは初めて知った。
『みんなちがって、みんないい』(私と小鳥と鈴と)
それはたぶん、女性が足を開いて座ってもいいし、女性らしい言葉を選ばなくていい。
男性が化粧をしてもいいし、スカートをはいてもいい世界。
ただ、そうなったとき『体を変える』ことを考える人たちはどれだけいるのだろうかと思う。そして、そんな世界で『体を変える』ことを選ばなくなった時、『性同一性障害の性適合手術』とはなんだったのだろうか……となったりしないのか。と思う。
医療などどうしても必要な場面でしか、性別の情報を必要としない社会になった時にそれでも『戸籍の性別移行』という手続きも必要になるのだろうか?
本の内容は思ったよりも深くならず、ネットで見かけたような情報だなというのが、正直な感想。
LGBT初心者にはちょうどいい本だけれども、偏見を持っている人に対しては偏見強化しそうな点もあるなと感じる。
私も偏見がある自覚があるけど、「トランス」と「シス」と対立させるような書き方ではないかと思わせてしまう部分があるので、危ない。
LGBTに偏見ある人は読んじゃいけない本だし、これを勧めるのは悪手だと思う。
純粋にLBGTについて知りたい人はどうぞ。