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「ポリコレの正体」を読んで

2024/03/07

ポリコレの正体 「多様性尊重」「言葉狩り」の
先にあるものは
– 2021/12/1 福田 ますみ (著)

「ポリコレの正体 「多様性尊重」「言葉狩り」の先にあるものは 著:福田ますみ」を読んでみた。
ポリコレ批判というのはタイトルからもわかるので、ある程度覚悟して読んでみたが……思った以上に酷いと思った。
『まえがき』を読むだけでも、認識の偏りを感じる。
せめて、差別の日本史のように『歴史的事実』の積み重ねの上に後半は雲行きが怪しくなるならわかるのだが、最初から雲行きが怪しい。
突っ込みながら書こうかと思ったが、『まえがき』に書いてあることは、本の中でも書かれていることなので突っ込みはそこですることにする。

そして、最初に書いておく『無駄に長くなった』


とりあえず、ポリコレという言葉の意味を書いておく。

――――――――――

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策または対策などを表す言葉の総称であり、人種、信条、性別などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性ともいわれる。

―――――――wikiより


1章 ポリコレは、ディストピア全体主義への一里塚
まず最初に女子競技に元男性のトランス女性が参加したことが書かれている。

これは話題になったので私も知っている。また、全体的には世間で言われていたことと大差はないが、これがポリコレ批判に使われるとなると、方向性が違うような気がする。
トランス女性が女子競技に参加するために必要な『女性自認』と『テストステロン数値』はクリアをしてるので、競技参加には問題ないのだ。
元男性だったのだから筋力の量が全く違うというのは分かるが、競技ルールがそうなっていてルール上問題がないことに対して『トランス女性が参加した』ことを問題にするのはおかしい。問題にすべきは『ルールは適正かどうか』である。

しかしその前に『なぜ、テストステロン数値のルールができたのか』を知らなければ、これをポリコレ(特定メンバーを排除しないための仕組み)とは言えないと思う。実はこのテストステロン値のルールはトランス女性のために出来たルールではない。
記録を出した女性を排除するために作られたルールなのである。つまりこのルール自体がポリコレではなく、差別と排除のためのルールと言える。ポリコレとは全く逆の理由で作られている。


キャスター・セメンヤさんという女性選手が通常の女性よりも高いテストステロン数値だったために、テストステロン数値のルールは作られたのだ。これを知れば、ルールで排除されているのは女性であるとわかる。女性を排除して、トランス女性が代わりに入り込んでくるというおかしな状況になっている。キャスター・セメンヤさんは性分化疾患だが、排除されているのはそのような『女性選手』なのである。


という事まで踏み込んで書かれていたら読めたのだが、『おかしいよね』という話で終わっているので情報が足りないと思いながら読んでしまった。排除のためのルールをポリコレとは言わないから書けなかったのか、トランス女性が入ってくることだけが問題だと言いたかったのか……。どちらにしても『女性競技』には、誰が女性なのかを規定するルールを作ったためにトランス女性も女性として参加可能になったという皮肉な歴史がある。


トランス女性が女性競技に参加することで、一般の女性が排除されて抗議の声を上げている……というだけでは、『何が問題なのか』が見えづらい。そして、この先もそのような文章が続くので読んでいてちょっと辛い。もう少し、理論的な話が欲しいのに書いてあるのは、ポリコレ批判。保守派と左翼という対立構造での話。

政治の話なら、もっと法的にこうなっている。こんな事件があったという話にしてくれた方が読みごたえがあるが、事件は『保守的なことを言ったら暴力や批判を受けた』というものばかり。少しうんざり。


頑張って話を進める。

アメリカではメリークリスマスを言えない。とあったので、ネットで調べてみると、どうもそうでもないらしい。『「メリークリスマス」の挨拶は万国共通ではない。』という記事を見つけた。メリークリスマスといったからと言って、批判されるわけではなさそうだったが、本の中ではやたらと『メリークリスマスと言ったら批判される』と書かれている。

日本のように商業クリスマスとして入荷され、キリスト教徒ではないのにお祝いの真似事だけするのもどうかと思うのだが、そちらへの言及は本の中の主題ではないのか興味がないのか何もなかった。

アメリカでは父や母など、性別を表す言葉も使えないというのを見ながら、日本では長らく男性が育児参加する率が低いのに『父兄参観』なんて言葉や『父兄へ』というプリントが配られてた……というのを思い出した。最近は『保護者へ』と変わったようだけど、これに対してもおかしいというのだろうか。


また、高校で教師がトランス男性を『she』と呼んで解雇されたというのも、調べてみると宗教上の理由で彼女と呼んでいたというようなことが書かれていた。学校内に宗教の問題を持ち込むものなのかという問題と、『彼』だという意識を全くしていないという状況があったというようなことも書かれていたので……本の中の情報だとやはり、片手落ちではないかと思う。情報が少なすぎて判断材料になり得ないのに都合よく切り取りすぎている。


黒人の髪型を真似たり、白人が着物を着て批判されたというものに対しては、アメリカは差別の歴史があって黒人の真似をしてからかうというようなことが今までにもあったために、それが批判されるようになっているというのもネット上で見かけた。

日本にいると人種差別は感じないが、アメリカでは日本人も差別対象で着物を着るというのは日本人を揶揄するという事という今までの事例があるから批判されているらしい。

もちろん、現代においてそのような揶揄する意図はないのかもしれない。しかし、今までの事を水に流すにはまだ時間が足りないのだろうと思う。このあたりの事例もアメリカの文化的背景をさっくりと削除して、『ほら、ポリコレで叩かれている』と簡単に書いてしまってるので情報が足りない。


【「事実」より「抗議者の気持ち」が優先されるレイプカルチャー】という小見出しにもうんざりしてしまう。

『気持ちを優先させてるんだろ』というとき、自分もまた『私の気持ちを優先させてよね』と言っていることに気が付かないのだろうか。理論も理屈もあったものではないというのは、読んでいて感じていたがここまでとは思わなかった。ネットのポリコレ批判記事を読んでいた方がまだマシである。

ここに書いてあるのは『大学で性犯罪に関する用語を使うなと学生から言われたが、それでは授業にならない』というようなものだった。ポリコレがどう関連してくるのか、もはや意味不明である。性犯罪の用語に不快感を覚える学生はいるだろう。

さらに『傷つきやすい学生のために専用のシェルターがある』という驚きが書かれている。
大学生がそんな子供じみたことをするなんてという偏見の視線が透けて見える。大学生だろうが大人だろうが『安全な場所』があっていいはずだし、大学がそれを必要と判断したなら外の人間がうだうだ言う必要もないと思う。


ここから先の話もおかしいと感じる。

『学生はほとんど左翼なので保守派の考えには一切聞く耳を持ちません。学生たちは実力行使で講演阻止するか、耳をふさいでシェルターに逃げ込むのです』

この辺りは、一部の学生がそうしたという話を『ほとんどすべての学生がそうしている』というイメージ操作なのでは?と穿った見方をしてしまいたくなる。


アメリカではすべての白人は人種差別主義者と教えている……というのもおそらく違うのではないだろうか。
全ての人々はある意味では差別主義者なのである。なぜならば、差別が当たり前の世界で、それが『差別』だと感じていないから。誰でも、他者を踏んでしまうことがある。そんな時に慌てずに、踏んでいる足に気が付くことから始めよう。
という、差別の話の基本が、なぜかねじ曲がって『すべての白人は人種差別主義者』になっているのではなかろうか。


その後の『白人はテープの四角の中に立たされる』というのも、差別の知識を得ればなぜそうするのかが分かるはずなのだがその『差別とは何か』という知識がない前提で語ると『意味が分からない』という話になるだけではと思う。白人だけが立たされるのはおかしいという話ならまだ分かるが……そんな文は一言もない。ただ『こんな教えはおかしい』というだけである。

マイノリティにいる側も、集団が変わるとマジョリティの立ち位置になり得るので、誰もが差別する側になる可能性はあるので、やるなら全員がというならわかる。


トランプはポリコレのタブーを破ったというのも書いてある。
『トランプ前大統領は、ネガティブキャンペーンの標的になった。(略)ポリコレを果敢に打ち破ろうとしたため、まさにこの”ポリコレ棒”を振りかざす左翼に、最も恐れられたためだったのである』
どこをどう突っ込んでいいのかわからない。

トランプ前大統領の時代は差別と分断が進んだというのをあちこちで読んだ。それは日本人ですら例外ではない。アメリカに住む日本人は『身の危険』すら感じていたというのをネット上で読んだ。トランプ前大統領が差別をあおるからだ。それについては何もなかったがアメリカに住む日本人が差別にあう事はどうでもいいのだろうか?


2019年のラグビーワールドカップの日本チームに対しても『日本愛』があったから国籍や民族が違っても勝てたというように書かれているが、スポーツには明確な『勝つ』という目的がある。それに対してチーム一丸になって戦ったから勝ったのであって、日本愛というのはどうだろうかと思ってしまう。この『日本愛』が民族がばらばらでも統一の価値観が必要だという話につながり、ポリコレは必要ないという話になるらしい。

笑っていいですかね。突っ込むのももう、面倒なのですが。


『ポリコレは、本音を隠して偽善的にふるまうことを強いるのだ。』p62


とあるけど、これは差別されていた側がそれまでされてきたことなのだが。そして、公の場というのはたいてい『偽善的にふるまう事を強いられる』場でもある。
この後はポリコレの歴史のようなものになる。マルクス主義だとか、言葉の変遷とか……たぶん、それほど間違ったことは書いていないのではと思ったのと、ここまで調べなおして疲れたので歴史は読み流すことにした。

アメリカの話が中心なので、『本当なのか』の判断が付きづらいのが困る。アメリカの背景を知らないまま、日本的感覚で受け取るといろいろと受け取り間違えるのだろうなと思う。

一章だけでも突っ込みどころ満載で、無駄に長くなった。まだまだ続くよ。


2章 日本のポリコレは、「反日・日本人」養成所
2021年2月の森喜朗・元総理の女性蔑視発言について書かれている。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という問題発言である。

まず、この発言については『問題がない』『たいしたことがない』と述べ、批判のせいで辞任したと書かれている。

私の意見は『問題ありの差別発言』としか思えないものだったので、読んでいるだけで疲れてきた。
本の中では、
森氏の発言は『女性っていうのは優れているところですが、競争意識が強い~略~』であり、『欠員があるとすぐ女性を選ぼうという事にしているわけであります』と森氏は締めくくっている。
つまり、『女性に対する否定的な意見があっても、女性を進んで登用する』と言っているのである。

というように書かれていたが、これは逆ではないのだろうか『男性社会に必要な競争意識を持っている女性を登用する』と言っているようにしか見えない。また、『否定的な意見があっても』という点においてもわざわざそのような意見があるという意味が分からない。

とりあえず女性を選べばいいわけではないし、やはり発言の概要を見ても女性を尊重しているようには見えない。


〈森喜朗叩きは言葉狩り、多様性尊重派は自己矛盾に気付いているか〉という小見出しが目次では太文字になっていた。
そこにこんな説明がある。
『多様性とは、本来そうした異なる価値観の人々をも包摂し、その寛容の精神で共存することではないのか。一方的に差別者の烙印を押し、糾弾し、社会的に葬り去ることが多様性なのだろうか。』p87

これは、ある意味ではそうだともいえるが、ある意味では違うともいえる。
異なる価値観の人々と、人は共存できない。ある程度の緩さと、ある程度の統一の価値観の基に人は共存できている。だから、『叩きあう人々と共存はできない』

暴言・暴力をする人は少数である。しかし、政治やそれなりの地位の人には責任があり、差別は許されないことであるという認識が広がっている現在では、辞任すら必要になっているのである。なぜなら、政治家やそれなりの地位の人が差別をすることで社会全体が『差別容認の空気』になり、マイノリティへの暴力へとつながるからである。


多様性を都合よく『差別発言をする人も認めろ』という意味で使わないでほしいと思う。その発言で、暴力や恐怖を受ける人がいるのだから。


一応、著者も『日本にも女性差別はある』と認めているが、世界にはもっとひどい女性差別がある。それと比べると森氏の発言は取るに足らないらしい。
なぜ、日本の話を世界の話に広げるのかわからないが、日本に住んでいる人がまず『日本の状況』に目を向けるのはいたって当たり前の反応だと思う。

「ジェンダーギャップ指数」は女性が意思決定にどれくらい参画しているかが反映されやすいから順位が低いが、「ジェンダー不平等指数」では女性が安全に出産できる環境が整っているかを重視していて順位が高いとあった。
たしかに、日本は安全に出産ができる環境は整っているが、性教育はなく、中絶法も掻把術という危険な術式である。中絶薬も承認されず、中絶手術も男性の承認がほぼ必須である。ピルの承認も長くかかり、震災時の避難所で生理用品を求めれば、『いやらしい』という男すらいた国なのだ。

女性が意思決定に参画しないということは、女性の体の事すら女性が決められないという事である。安全に出産ができるのは、ほぼ皆が病院で出産するからだが、これも現状は産科医が減り、地方では一つの病院が請け負う地域が広がり、いつまで安全性が担保されているかは分からない状態である。

この後は、女性の方が幸福で男性の方が自殺率も高くてつらいとある……。でも、男性がつらいのは、男性が作り上げた社会のせいなので、女性は関係ない。
女性が高収入になっても、低収入の男とは結婚しないじゃないかというようなことが書かれていたが、これは収入の問題ではなくて男性側に『家事力・育児力があるか』という問題だと思う。低収入だけど、料理・掃除・洗濯が全て完璧にできるならば、高収入の女性はその男性を選ぶと考えたら、そんなツイートが本を読んだすぐ後に流れてきた。

『男女の性差というものがどうして存在しているかと言えば、お互いに足りないところを補完し合って一対になるからだ。』p104

これは少し違うと思う。というか、そんな神話を持ってこられても……と思ってしまった。
男女の性差は『生物の生存戦略の結果』でしかない。足りないところを補完し合った結果ではなくて、生物として効率的・効果的に子孫繁栄する仕組みを組み立てた結果が今の形になっただけだと思う。

この話は『(女性は)子供を産み育てる性として、より強い遺伝子を獲得したいからだ。』というものからきているが、産む機能は女性にはあるが、育てる機能は男女限らずあるはずなのに男性はその機能を放棄して『ない』ことにしているだけに過ぎない。そして、『より強い遺伝子』は猛獣に襲われる心配のない現代において、必要がない。それよりも女性たちが男性に欲しているのは家事育児スキルであり、共感力だと思う。

こういう点も気持ち悪いなぁと感じるんだよな。2章終わり。


3章 ブラック・ライブズ・マター BLMの不都合な真実
すでに突っ込みどころが多すぎて、疲れてきた。
3章はアメリカのBLMの話が中心だが、1・2章と同じく、反差別運動への批判と運動が暴力的だという話。

ブラック・ライブズ・マターというスローガンを掲げた社会運動の話。日本語にすると「黒人の命は大切だ」などと訳される。

抗議運動のきっかけである2020年5月のジョージ・フロイドは『偽札を使った』と疑われて警察に拘束された。著者は偽札を使ったと疑われた上に抵抗したから、この件の警察は悪くないと考えているようだった。

突っ込むのも面倒だが、『9分間も「苦しい」という訴えを無視した』という点は著者は問題にしないようだ。


3章もいろいろ思うことがあるが、まず、BLMの歴史を語るならば黒人差別の歴史を語らなければフェアではないような気がする。もちろん、この本の中に黒人の歴史はない。あるのはBLMの歴史とその活動が過激であり、いかがなものかと思うという感想だ。
個人的にはKKK(クー・クラックス・クラン)という白人至上主義団体が何をしてきたかという事も含めて書いて初めて、BLMが何を求めているかが分かるのではないだろうかと思う。

3章も相変わらず、片手落ちの都合のいい情報が満載。

BLMが団体ではなくて、活動を指すのだから『一部が過激化する』というのはよくある事だと思う。日本でも学生運動が過激化して問題になった。私はその『過激化した事件』しかしらないので、そんなものだと思っていたが、この間読んだその世代の人の話によると「最初はそうではなかった」というのが書いてあって、驚いた。

話し合いで問題解決ができるというのは奇跡に近いのかもしれない。大半は過激化してやっと話が通ったり、大勢がその問題を知ることになる。その過激な活動が良いか悪いかと言えば、『悪い』のだが、そうするしか声が届かない場合も往々にあるのだと歴史を知ればわかる。
少数者の声や、社会的に地位の低い集団の声というのは、話し合いで何とかしようとしても大多数の声にかき消されてしまうものだという知識のかけらを頭に入れておくだけでいい。
それを安全な場所から『過激だ』『やり過ぎだ』『批判的で他者の意見を受け付けない』と攻撃するのは、その人たちが属する集団が地位の高い場所にあるからだと思う。それを【差別】という。

そして、沈黙は差別加担だから無理に同意させられている人たちがいると訴えるが、逆もしかりだと思う。

今までも差別反対だと思っていた側が沈黙させられてきた。KKKが活発だったときは、黒人への暴力を誰もが無視してきた。その歴史については何も触れずに、現状の『差別反対を盾に保守的な意見』だけが無理やり沈黙させられているというのはどうなのだろうか。


4章 LGBTを”弱者ビジネス”にしようとする人々
LGBTという言葉のはじまり。相変わらず細部はイライラさせられるが、大筋はそれほどおかしなことはない。

と思ったのもつかの間、『日本社会は、もともとゲイやレズビアンを差別してこなかった』ときた。
同じ言葉をネット記事でも見かけたな。たぶん、そういう界隈があってそこではそう語られるのだろう。

理由は『海外では犯罪だったが、日本では犯罪ではなかったから』というもの。
吐きそうである。

まず、日本では稚児というものがあった。寺院での男たちの相手をする若年の男性の事である。これらが認められていたから、日本は差別していない……というのを見かけるが、これはただのパワハラであり『若年』の時だけの性欲の対象なのではないかと思う。これを同性愛と呼ぶには、どうなのだろうか。

そして、罰則がなかったから認められていたというのも、違う。

そもそも『存在を認めてこなかった』から、罰則も存在しなかったというのが正しいのではないだろうか。


同性愛というのは倒錯であり、若いころの錯覚であるというのが日本での認識だったのではないか。もしくは、大奥や寺のような異性の存在しない閉ざされた空間での、特別な情事だったのではないかと思う。
通常の男女がいる世界での同性愛は、『大人がやる事ではない』という認識が正しいような気がする。
だからこそ、罰則もなければ病気という認識も日本ではありえなかった……と私は思うのだが、この辺りはどちらも証拠がない。

しかし、犯罪ではなかったから差別はなかったというのは単純化し過ぎである。


さて、LGBTについて書かれた後で、この章の主題である杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」という論文で新潮45が休刊したという話が続く。

森氏発言と同じくこちらも、『大したことがないのに雑誌休刊になった』というのが大筋の話である。休刊はこの論文だけではなくて、その後に載せた批判への反論特集がとどめを刺したというものだ。概要程度しか頭になかった私には反論特集の話はなるほどと思いながら読んだ。
どれも納得はできないが、一読の価値はあった。

「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という小川榮太郎氏の論文がさらに燃えたというのは初めて知った気がする。
しかし、燃える理由はわかるが、向こう側には理由がなく『当たり前』という感覚なのだというのもわかる。この認識の差は『政治とは何か』『国民主権とは何か』『人権とは何か』といった今の日本では教えてくれない知識がなければ、大半の人がこの論文を当たり前だと感じるだろうとも思った。

そしてここで初めて、この本はそれらをただの情報として得ているからこのような結論に至るのではないかと思った。

知識として呑み込めていないし、そこまで結びついていないと『炎上したものの何がダメなのか』は理解ができない。だから、感情論が多く、中途半端な知識で怒りの感情に火をつけながら書いている。

さらに『人権』が理解できていないから、相手への侮蔑を混ぜながら書いているので読んでいるこちらとしてはイライラさせられて辛い。

「LGBTを認めれば、痴漢まで認めることになる」という言葉が侮蔑であると気が付かないのは、そのせいである。
すぐ手前で同性愛は犯罪ではない(から、差別はない)と書いてあったのに、こちらでは犯罪である痴漢と同性愛を同等に見ているのである。人権や平等、差別について理解しているならば、『差別』であると気が付けるはずである。

さらに後から杉田水脈氏の『支援の度が過ぎる』というのは「マスコミの支援である」と書いてある。文の前後を読んでも税金などのワードがあり、国の支援もしくは政府の支援と感じるのに後から訂正はないだろと思ってしまった。


杉田水脈氏の論文について4人の当事者へ取材したとあり、それが載っている。
最初のゲイは『社会的な差別うんぬんよりも、親が理解してくれない方が辛い』と論文に理解を示している。そして『政治は「生きづらさ」を救えない』のは当然だと思っているらしい。
社会の支援や教育が整えば、親も理解してくれるという事は思いつかないのだろうか。政治は生きづらさを救えないかもしれないが、政治がLGBTに理解を示すことで親や身近な人間の理解も増える。生活と政治は地続きであるという理解がないためにこのような結論になるのかなと思ってしまった。
ついでに『LGBTに税金を投入しても子供は増えない』というのも、同性カップルが養子をもらうという事や、人工授精での出産という想定がなさそうだなと思った。自分は子供なんて欲しくないだから、別にいいというのはわかるが、それとは別で同性カップルでも子供が欲しい人たちがいる。その人たちへ支援することで子供が増える可能性や子供が幸せに生きる環境を手にする可能性もある。

二人目もゲイ。こちらはゲイは人生を謳歌していると書いてある。カミングアウトを勧める危険性についても書かれていて、その点は同意できる。
三人目がバイ。ビアンの困難さに触れていて、その点は同意できる。
四人目はトランス女性。論文に差別的意図はない。LGBTに寄生する左翼勢力が問題である。とのことだが、納得はできない。というか左翼とかどうでもいい。


この4人を持ってきて『LBGT当事者自身が問題がないと言っている』というのだが、LGBTにも多様な意見はあるのだから当たり前であるの一言しかない。反対意見だけ持ってくれば、これが『LGBT当事者の声』に見える。だから、『LBGT当事者も迷惑している』というのは悪質。

マイノリティが一枚岩で同じ意見を持っているとでも思っているのだろうか。そんなわけがない。みんなそれぞれ『個人』なのである。『マイノリティ』である前に『人間』であり『個人的意見』をそれぞれ持っている。

LGBTに限らないが、マイノリティのレッテルを張るとき、人は『それが個人の意見である』という事を忘れがちである。ただし、『個人の意見だから、マイノリティの他の人はそう思っていない』というのも間違いである。同じ意見の人もいれば、違う意見の人もいる。うっかり、この基本を忘れて読むと間違った読み方をしそうなだなと思う。


フェミニストVSトランス女性という小見出しはある意味では頷けるが、ある意味では違うと思う。
女性スペースの利用については女性とトランス女性との『対立』に見えるものが、私のツイートにも流れてくる。私も時にそれに頷き、リツイートをしているが、同時に『全てのトランス女性が女性スペースに入ろうとしているわけではない』という事も頭の隅に入れるように気を付けている。

マイノリティも一枚岩ではない。しかし、一部では困った人たちがいるのも事実なのだ。そして、被害を受けるのは女性側なのだ。

これを、対立と捉えるのは、まるで対岸の火事のような他人事だなと思う。私自身は女性の体なので、これはトランス女性との対立だとは思わない。犯罪を防ぐためにはどのようなルールが必要かという議論であると思っている。


5章 【事例研究】LGBTイデオロギーとどう向き合うか?
三つのケースについて書かれている。

ケース1 一橋大学法科大学院生、アウティング転落死事件
アウティングされたために自殺をした大学院生の事件を取り上げてある。詳しく説明がしてあり、分かりやすい。

最後にはアウティング禁止条例は当事者をさらに苦しめるのではと結ばれていて、それはよくわかると思った。それは当事者団体のコラムか何かでも書いてあったのを見たことがあるので、当事者団体も同じ懸念をして『相談場所』を作る事に力を入れているというのを読んだことがある。

ケース2 女子大に男子が入学する日 ――お茶の水女子大学の”英断”
大学側に質問まで送っていて、分かりやすく書かれている。懸念するところもわかりやすく書かれていて、頷きながら読み進んだ。女性スペースに関することや思春期の揺らぎではないのかというのは頷くしかないが、『思春期の揺らぎかどうか』は測りかねるのでその点を問題視するのもどうかと思う部分はある。(でも、問題視する気持ちはわかる)
※2023/07 某女子大にトランス女性を受け入れるという話題が出ていた。今では、それは反対という意見が多いようだ。個人的には正直、まだわからない。その女子大でしか学びたいものが学べないトランス女性がいるなら『学問』という点から受け入れてもいいのではと思うけど、『女性になるため』であるなら首を傾げる。ただ、学生からも反対意見があるようなので、それは大学側は受け入れるべきではないかとは思う。でも、これは本当にまだ分からないので何とも言えない。 


ケース3 春日部市議、不必要なパートナーシップとの闘い
やっと読める章になった……と思ったのもつかの間、このケース3はまた同じ論法なのか……とため息が出た。
『子供にゲイやレズビアンを教える必要がない』といった市議の主張から、「春日部市に差別はない」という話に発展した。差別がない理由が「報告がないから」だという。

どこかで聞いたような話だな……と思いながら読んでしまった。私が住む県でも県知事が『パートナーシップ制度導入の予定はない。なぜなら、そのような意見はないから』と言い放ったことがある。ド田舎で、同性愛とばらすなんて親族中がそんな目で見られ針の筵(むしろ)になることを指している。そんな危険なことをする人はごくまれか、よほど中心部に住んでいてご近所付き合いがない人ぐらいである。

意見がない=要望がないのではない。

言えない人たちがいるという想像力がないのだろうかと思う。

しかし、本書では『相談がない=差別がない』という論法で『存在しない差別へ対応しろと言っている』となっている。言えないくらいのマイノリティであるという事は視野にないのだろうか。『アウティングを勧めることは危険である』という意見を書きながら、『相談がないのは差別がない証拠』になっているのはおかしなことである。

さらには部落差別を指して、部落解放同盟も異論を許さないものだったと書いてある。部落についてここで持ち出してくるのはどうなのかと思ってしまう。マジョリティ側の過激さを一切書かないのは悪質だと3章のBLMでも書いたとおりだ。


そして最後は『皮肉』で終わっている。

『2、3歳児のトランスキッズが溢れる社会は、さぞ素晴らしいパラダイスに違いない』

ネット記事を読んだ方がましであったと思わせてくれる本に仕上がっていた。最後の締めは『自分の意見』にするべきだろう。
皮肉で終わらせてしまっては、ただの愚痴なのかという気分になってしまう。


私がこの本で学んだのは『このような反証』は一切意味がない。ということである。
『ポリコレの正体』というよりも、『私たちの意見を差別というな』という主張が強すぎてこれが『ポリコレ』について書いてあるものだとは思えなくなる。

・『これはただのお気持ちである』→あなたの意見もお気持ちである。
・『あいつらは、これをわかっていない』→あなたもこちらをわかっていない。
・『こんなものは大したことがないのに、大問題にしている』→問題を認識するには前提知識が必要であるが、それを持ち合わせていない。または、中途半端な情報だけを持ち合わせている。
・『私たちの意見を聞け。そうでなければ多様性ではない』→多様性を、『多様な意見を受け入れるもの』と誤解している。批判している相手(多様性)のふんどしで勝負するな。多様性は『多様な人が存在していると知る』事であって、『どのような人も受け入れるもの』ではない。


さらに本書で気を付けなければと思ったのは
・皮肉を入れると、伝えたい意見が消え去る。
・感情的になると、伝えたい意見が伝わらない。
・自分が何を見ているのかを自分自身が分かっていないと、自分の中で意見のズレが出る。

私も気を付けないといけないな……と思いながら読ませていただきました。


これを読んでもポリコレの正体は分からない。という事だけ伝えておきたい。

『ポリコレの正体 「多様性尊重」「言葉狩り」の先にあるものは』