「アルジャーノンに花束を 作:ダニエル・キイス 訳:小尾芙佐」を読んでみた。
タイトルだけは聞いたことがあったけど、読んだ事がなかった作品。
アルジャーノンはネズミの名前。主人公はチャーリイ。精神薄弱者(知的障害)のチャーリイが手術で賢くなり、すべての物事を理解していくがやがて急速に知能が衰えていく。物語としては単純でわかりやすい。でも、変化の様子が細かくてわくわくしながら読み進めた。
まず、文章の変化がすごい。ひらがながほとんどで、音で書く幼児期のような言葉も多く、読点がない……という読みづらさ満点の文章が、徐々に漢字が増え、読点の使い方を覚えていく。幼児期からの変化を追っているような気がしてしまうが、それがさらに研究者と渡り合うような専門的な話にまで上っていく。追いつけない。
でも、最後にはそれがまた急速に戻っていく。最初の変化がゆっくりだったのに比べ、最後の変化は本当に急速で、こんなに急に『忘れて』いってしまうのかと思った。しかも、記憶はまだらで、『忘れた事』は理解していたり思い出したりする。忘れることへの苛立ちと、その変化を周囲の人に見せたくないという羞恥心。下りは急速ではあるけど、感情の揺らぎがすごい。
そして知能の変化の間に起こる人間関係の変化もリアルで怖い。私たちは無意識に相手を見下している。よくも悪くも。自分がどの位置にいるのかを測っている。知能が高くなった主人公のチャーリイ自身でさえも。測らないのは知能が低いころのチャーリイだけ。相手の知能を測る能力もない人間の方が相手を見下したり、馬鹿にしたりしないというのは喜劇に近いなと思った。
そこに絡む恋愛模様もまた、綺麗で惹かれてしまう。思春期のような恥じらいなのか、母親による暴力による恐怖なのかわからないけど、チャーリイは好きだと思った相手とはセックスが出来ない。逆にどうでもいいと思った相手とはできてしまう。
これがすごいなと思うのは、主人公がただ『モテる』わけではない。知能が高いチャーリイは紳士的で、女性側がなんとなく『惹かれる』タイプだということがわかる。ただし、知能が高い分、傲慢にもなりやすい。暗に女性を見下しているが、その『見下している自分』にすら気がついているのがすごい。普通の小説はここで『見下しは当然のもの』として書かれてることが多いのに。
知能が高い=頭がいい(知識を得る)ではなくて、『世界がよく見え、理解することが出来る』ということが、これでもかと書かれているのがすごい。相手はどう思ったのか、どうしてそう行動するのか、それが見えるから自分はどうしたらいいのかと迷うけど、この『自分はどうしたらいいのか』の答えは簡単には出てこないのもいい。
そして、知能が低い自分と高い自分が別のものとして表れていく。これはチャーリイの変化が急激だから『知能の高い・低い』でわかれているけど、一般的には『過去(子ども)の自分』と『現在(大人)の自分』で分けて考える時というのはあるような気がする。
チャーリイもこの分離に説明がつくのは知っていても、経験すると対応が出来ない……という普通の人なだけなのがいい。
知能が高くなっても超人になるわけではないし、知識を得ても現実に上手く対応できるわけではない。というような話なのだと思う。特に善悪の判断はそう簡単ではない。
気になった部分。
『人々が私を笑いものにしていたことを知ったのはつい最近のことだ。それなのに、知らぬ間に私は私自身を笑っている連中の仲間に加わっていた。そのことが何よりも私を傷つけた。』208p
『精薄者ですら、並の人のようになりたいと願っている。』209p
自分が『自分を笑っていた側』のように考えていたこと気に付いているのに、『精薄者すら』と考えてしまうのも、どうなのかなと思う。その後は『自分の知能を活かして、精薄者を自分のように変えなくては』と思い始める。……思春期の芽生えを見てるみたいだ。
変えるのは『社会である』とは考えないのもいい。この時代(1959年)だとそういう考えはあったのかはわからないけど、現代だと『問題があるのは社会(環境)の側』という視点があるので、この物語自体が成立しそうにない。
仮に手術までは成立しても『知識を得たチャーリイ』が「変えるべきは知的障碍者だ」とは思えない気がする。
『なんらかの理由でチャーリイはアリスを恐れているがフェイを恐れてはいない、だから明りを消してフェイと愛しあっているふりをすればいい。』213p
『帰宅してフェイと愛しあったが、アリスのことばかり考えていた。』245p
フェイを愛しているが抱けず、アリスは抱けるが愛していない……拗(こじ)れた恋愛だなと思うけど、フェイは元々『チャーリイ(知能が低かった自分)』の教師なので、抱けるわけがないのでは??と思いながら読んだ。小学生が先生とセックスしたいと思わないのと同じようなもの。そういう対象ではないだけな気がする。でも、今の知能が高くなったチャーリイはフェイを愛していると思っているし、愛しているなら抱くものだと思っている。
これも現代だと『アセクシャル(無性愛者)』など、色々な概念があるので現代で知識を得たチャーリイだったら、もっと別の結論を導きそうな気はする。
でも、この抱けるか抱けないかで悩む姿は好き。
『愛の神秘をわかったようなふりはすまい、でも今のこれはセックスと言っては言いたりない、女の肉体を使うというだけではたりない。(略)
私の肉体は、与えることによって震え、彼女の体はそれを受け入れて震えた。(略)
子供は子宮から、友だちは友だちから、たがいにはなれていき、それぞれの道を通って孤独な死のゴール・ボックスへとおもむく。
だがこれはそれをおしとどめる釣合いのおもりだ。人々を結びあわせふみとどまらせる行為だ。』301-302p
セックス描写が神秘的すぎて惹き込まれた。でも、その後で『フェイトのセックスは肉体的。アリスとのこれは神秘的だ』というような事が書かれてる。
フェイトのセックスシーンがあっさりとしているのに、確かにアリスとのセックスシーンは
神秘的な文章が続く。
ただ、これは『知能が低下していくことがすでに分かっている』状態での行為なので、アリスに子供が出来てしまってもチャーリイには責任が一切取れないどころか、子供のことさえ理解できるかわからないんだろうな……とも思ってしまった。精神薄弱が遺伝的な要因であった場合は、子供も同じように……とは思ったけど、その辺りの知識はチャーリイが調べたのだろうし、その不安が書いてないということは遺伝的要因はなかったということなのかな。脳手術の説明が少し出てきていたけど、意味がわからないので『精神薄弱』が何の要因なのかがわからない。
物語上はとても美しいシーンなのに、現実で考えるととても無責任なシーンになるのは切ない。いや。物語として綺麗だから好きだけどね。現実脳は消しておく。
最後にはアリスのこともチャーリイは忘れてしまう。アリスが『先生』だったことしか覚えていない。知能が低下したら施設に行こうと決めていたけれど、それも忘れているのか『みんなにかわいそうだと思われたくない』から、施設に行こうと決意して終わる。
結論は同じなのに、その理由まで変わってしまうのも切ない。
世界が広がった後に閉じていく物語。知能はチャーリイに知識と孤独を与えただけに見えてしまった。知能を失って、チャーリイが平穏と幸せを手にする。
この時代だからこその物語で、現代を舞台にして書くにはいろんな点が変わっていきそう。
そして、現代だと『認知症』の人の脳の変化の話を読んでるような気にもさせられる。特に後半の世界の認識が出来なくなる怒り、悲しみ、不安などは『忘れていくことに気がついている』人には共通するような気がする。長寿の現代においては誰にでも起こりえる変化なのかもしれない。
ごちそうさまでした。
