続あゝ野麦峠 単行本 – 1980/4/1 山本茂実 (著)
「続 あゝ野麦峠 著:山本茂実」を読んでみた。
「あゝ野麦峠」の続き……と思ってたけど、続きというよりも追加資料と情報だった。工女たちの暮らしていた村の風習なども出てくる。
◆「ああ飛騨が見える」その後
・第一話 おみね地蔵由来記
「ああ飛騨が見える」といって峠で亡くなった政井みねの兄辰二郎の話。
兄は女と駆け落ちして村を出ていったやくざ者と言われていたけど、村に戻ってきてみねが亡くなってからは真面目に働き地蔵を立てたという。俳誌『辛夷』にもその名前が載ってたという話まで載ってる。……そんな情報まで手に入ってるのすごい。
俳誌には紀行文の中で飛越国境越えの案内人として出て来る。
そして、『あゝ野麦峠』では腹膜炎と書かれていたけど、こちらでは『気管が悪い(肺結核)』になってた。
『夏は山でワラビやウドをとり、宮川にヤナを仕掛けてアユをとり、秋は霞網を張ってツグミやアトリ、冬は熊撃ちの猟師になって稼いでいたらしい。』21p
四季によって出来ることが変わっていく。そして、春がない……と思ったけど、春は田植えの手伝いとか作物の植え付けの手伝いで稼いでいたのかな。と勝手に考える。
・第二話 越中おわらと野麦峠
越中おわら……八尾の人たちも野麦峠を越えたという話。12歳の子どもたちが峠を越えて谷岡へ向かったという。
峠が厳しくて水橋から船で直江津まで行く時もあった。
『舟にはこのくらい(五メートル程)の穴がい当ていて、工女はその穴から飛びおりたが、もっとつめろといわれ、三、四十人もつめたので、座ることも立ち上がることもできなかった。』37p
奴隷船のようだという筆者の感想がある。当時の工女たちでも、これは酷すぎて、次の年からは峠を歩いて越えたという話がこの後に載ってるので、かなり酷い状況だったのだろうな。
『日露戦争後小杉(?)へ行ったときは東海道回りだった』40p
工女のインタビューで、どこで働いたという話。これ、最初は富山の小杉かと思ったけど、東海道回りで行くなら富山県内ではない。ということは、神奈川の武蔵小杉の辺り?……調べたら、三重にも小杉の地名があるらしいけど……現代では消えた地名の可能性もあるからわかんないな。製糸工場の話だと思うからその辺りにあった工場に行ったという事だろうけどどの地名をさしてるのか分からなくて(?)が入ってるのかな。
『ワシが糸ひきに出たのは、明治三三年一八の年、(略)この時の初旅は、第一日目の六月一八日は飛騨船津泊、この晩宿にヨバイが入ってきておそろしかった。』41p
ヨバイが宿に……って中々、衝撃的な話。この時代でも『女性の旅』は珍しくて目立ったから目をつけられたということもあるのだろうか。一人遅れていくことになったから、尚更目立ったのかもしれないけど……宿のヨバイ嫌すぎる。
『工場では朝四時ごろから夜の一〇時ごろまで、休日なしで働かされたのに、高井すえは「四年年期」の契約金を、ケイアンに全部横領され、四年間空奉公させられたばかりでなく、その間工場では家へも帰さず、泣くにも泣けなかったという。(略)ケイアンとは奉公人の斡旋屋であるが、それにしてもひどすぎる。江戸時代の女衒か人買人のようなものだったにちがいない。』47p
これ書いてあるのは一件だけだったけど、『越中ではよくこのケイアンの話を聞いた』ともあるから、数件似たような事例があるのかなと思う。
・第三話 オトメ餅の哀歌
飛騨の奉公人と小作人の話。タイトルの『オトメ餅』はよくわからない。不味い物の意味か?となっていた。
『一四歳からどんな人ともデアイ(仲間?)になってユイデマ(旧農村部にあった特殊な共同作業)をした。ヒクサカリ(肥草刈り)のユイ(デマ)に出ると、村の衆が一〇人も集まる中で一等の腕前は一〇〇把、ヘボイモノ(腕のないもの)は八〇把だったに』56p
農村部の暮らしの一端がわかる。『ユイ』は聞いたことがある。『把』が数え方になるのか。十把一絡げもこういう束にしたものの数え方ってことかな。
『逃げたので私の名が代えられてオサクと呼ばれた。(意味不明)夏は四時冬は五時に起きる。一時間は暗がりの中で家の人たちの朝飯の支度をする。オーエ(座敷)を掃く。馬を飼う。水を汲む。人のと馬のとで一斗入りのダゴ(桶)二つついて四度も運ぶ。』58p
名前が代えられたというよりもそれが主人一家にとって呼びやすい名前だったか、その仕事をする人間をさす言葉だった可能性もあるのかなぁと思った。新しく来た奉公人の名前を呼ぶ気もないというのがわかるエピソードとも言えるのでは?
その後も奉公人の仕事の話が続いてる。
奉公人の正月の食べ物が『稗(ヒエ)一 粟(アワ)一 モチグサ八を混ぜたオトメ餅だった』とある。食べ物も不味く、扱いも酷いので逃げていく。農民だけではなくて奉公人もいい暮らしを求めて工女になったという話だった。
小作人たちも地主から借りた米の代金だけが増えてく暮らしで、一家総出で村を出て製糸工場で稼いで村に戻って借金を返済したという。……製糸工場、大人気だなと思ってしまった。
『旅稼ぎの主な仕事はソマ、コビキ、筏流し、野かじ、石工、クロクワ(土方)、糸ひき、はた織り、そしてまだ幼いものは子守りで、数はこれが一番多かった。』63p
ソマは調べると林業従事者ということらしい、木こりみたいなものかな。コビキも木の加工の仕事。貧しい者たちが出稼ぎで稼いだ仕事がこれらだったという。
◆飢餓街道の物語
・第四話 ワラビ粉の村
稲も実らない土地でワラビ粉を売っていた村の話。
『当時稲が一粒も実らず、村人は雑穀を植えヒエやソバのみを常食とし、ワラビ粉・トチの実・アワ等をとってひっそりと暮らす貧村で、牛を飼い、飛騨高山より隣国への出入り荷物を運送して駄賃稼ぎをするか、そうでなければ他国の山に雇われて、ソマ、コビキなどになって木材の山出し、谷出しなどで妻子を養い、また女、子どもは山深くわけ入ってワラビ粉製して他国に売り』68p
稲が育たない場所に住む人の暮らしが事細かに書かれている。結局出稼ぎするなら、転居した方が?と思ってしまったけど、この頃は移住も制限されてた……時代かな。でも、稲がない=年貢がないの?どういう支配システムになってるのか気になってしまった。
そしてこの極貧の村は一歳未満の子どもの死が四割、酷い年には五割に上るともあった。
その状況でやる事やってる大人が怖いんですけど。夜の体力はあったという事?産む体力もあったの?これ、妊婦の死亡率も欲しいと思ってしまった。載っていないのが残念。
『ワラビ粉の製法は、槌でくだいた根をモミ舟に入れて水をそそぎ、三つ手(器具名、三叉の木)でよくかきまぜていると米のとぎ汁のような白い液が出てくる、これをハナ舟(始舟)に流して不純物をとり除き、さらに水を加えて幾つかのコシ舟に通した後、数時間静かにほうっておくとコシキの下に白い沈殿物ができる。上水を流してさらに数日放置して乾燥させると、美しいワラビ粉ができる。』72p
説明文だけ読んでも大変そう。これ、本の中には男性器に似ているという作業の歌まで書いてあった。昔はいろんな仕事をするときに『唄』を歌いながらしたらしい。工女たちも糸ひき歌を歌いながら、田植え歌もあるし、そうやってみんなでやりながらテンポを合わせていたという事なのかなと。
そして、そうやって苦労してワラビ粉を作っても食いつなぐのがやっとの状態だったから、村の女たちはみんな工女になってしまった。村に残ってる女性は親に止められたけど、無断で村を出て峠を越えた……という話がこの話の最後に載っていた。
・第五話 生活の道・野麦街道
財産を潰して夜逃げをすることを『野麦越え』という。そんな話から始まる峠の茶屋の話と逃げ出す人たちの話。
貧しすぎて峠を越えようとするけれど、上手く行かずに野垂れ死にする人もいた。その死体の処理料金を遺族請求しても貧しいので支払われることがなく、村が負担するということになったという話も書いてある。
他にも山伏がこの野麦峠を通って托鉢をしたら、米がなくアワとソバ粉だったという話も。峠を越えると米が入るようになったとある。米が取れないから渡せないって事なのだろうけど。
貧しすぎて歩荷(ぼっか)で稼いでいた話も。古老の話では五〇貫が標準で三〇貫は駆け出し。……一貫は3.75㎏とあったので、三十で110と少しぐらい。五十で190ぐらい……200㎏?
山道歩くというのを考えると、かなり厳しい。まともに食ってるか怪しい身体でよく背負えたなと思ってしまった。
歩荷はキセルを片手にゆっくり進んだという話もあるので、速度はとても遅かったらしい。キセルの落とし物を自分のものにしようとした人に荷物を背負って煙草を片手でふかしてみろと言って、キセルの長さが合わなかったので取り戻したというエピソードも。キセルの長さが歩荷でそれぞれ違うので分かったという……キセルの長さって違うの?オーダーメイド?
炭焼き達が工女の泊まる宿にヨバイに入る話では、捕まえた男の父親を呼び出したけど、父親は『捕まった(逃げ足が遅い)ことが悪い』と言って親子そろって工女たちから袋叩きにあったという。……ヨバイは風習として認められていたっぽいけど、『文明開化の工女衆』はそうではなかった。+宿のおかみもそうではなかったという事らしい。
金を持った女は強い。
・第六話 野麦峠を越えた飛騨鰤
飛騨鰤(ひだぶり)の話。
塩漬けにして正月に間に合うように峠を運んだという。
『『おっか、海の魚ってものは、頭と尾(おっぽ)が別々に泳いでいるのか?』と子供にもいわれて、バカバカしいやら、情けないやら』108p
これ、現代でも聞いた話だなと思ってしまった。「お魚は切り身で泳いでいる」と現代の子どもも考えるようなので、今も昔も変わらないなと思って読んでしまった。
◆飛騨の糸ひきさ
この章は一話ごとにひとつのエピソードになってる。
・第七話 美女峠宇野茶屋のこと
盗みの疑いをかけられた工女を捕まえて、駐在まで呼んだが実は男の勘違いで盗まれてなかったという話。この時に駐在が「工女は貧しいから盗みもする」と決めつけるような事を言ったので、歩荷が駐在に食って掛かった。工女は病気の母親に会うために帰る所だったので、その茶屋にいた者たちで送り出した……というほっこりする話だった。
・第八話 山中紙と利賀水無
最初の話の政井みねの家族の話……が、またここでも。
みねの父親友二郎は継母に育てられて、酷い食事をしていたけれど地主がこの話を聞いて、友二郎を引き取ったという。その後、家族を持ったけど貧しくて娘たちは村を出て工女になろうか迷っていた。息子たちは戦争で招集されて、戦地で出会うことになったと……。招集先で出会うって珍しいことだったのかな。
・第九話 石室に咲いた冬の花
嫌い合っているように見えた検番と工女が、野麦峠の途中の石室で二人きりになり……何があったんでしょうね。工女が二人になりたいからと腹痛のふりをして検番に負ぶさったというのは策士だなと思った。でも、具体的に何がなくても夫婦になったって事は、……最低でも告白ぐらいはあったのだろうな。その部分がないのが奥ゆかしくていいなと思ってしまった。珍しい工女の恋愛話エピソード。
・第一〇話 美女峠の英雄
こちらは工女を毛嫌いしていた炭焼きの少年が峠道で工女たちを押しのけて行こうとしたら、工女たちが立ち上がれなくなった。仕方なく手を貸すと、思ったよりも幼い子で驚いたという話。その後も工女たちを助けて峠を越えたので、その日その少年は英雄になったと。
『かつての飛騨では女の子は金の玉子、男の子は一銭五厘(郵便切手)で兵隊に引っ張り出されるだけの「貧乏くじ」の穀つぶしであった。』153p
なかなか酷い言い方だなと思う。
・第一一話 旦那様と百円工女
4人の工女たちが帰ってきた家にヨバイの男が入り込む。でも、父親が目をさまして男に気が付き、奥の納屋へと男は逃げ込む。父親は暗くて分からず、探すのを諦めたが朝になって男を見つけ、水をかけてそっと外に逃がしたという話が一つ。
これ、ヨバイって親がいてもOKってこと? でも工女の家は貧しいものが多いという話だし、家族そろって一部屋で雑魚寝みたいな描写だけど……そんな中でヨバイ? チャレンジャーすぎる。そして、家族に黙ってそっと逃がす父親はもっと意味が分からない。単に夜中は盗人と勘違いしただけ? それとも、何もしてないなら逃がすものなの?
もう一つの話は大地主が娘を三人貸してくれと頼みに来た。屋根の吹き替え職人三人に「良い娘を一人ずつ世話する」と約束してしまったからと。父親は困って、曖昧な返事をしていたけれど、侍女が啖呵を切って断った。すると田んぼを取り上げられてしまって暮らせなくなってしまった。での、家族は製糸工場で働いて田んぼを買い戻した。数年後に大地主が金を借りに来て、父親は耳を揃えて金を貸してやったという話。
大地主の権力すごいのと同時に、時代の流れって怖い。生糸の値段が上がって工女の賃金も上がっていたから、田んぼを買い戻せたけど、逆に不況に陥ってたら飢え死にしてた可能性もあるわけで。大地主が金に困ってるのも、おそらく小作人たちが農作業より製糸工場が儲かると逃げ出した可能性がある。これも時代の流れなのよね。
◆証言・野麦街道
・第一二話 古着商人の語る野麦物語
薬売りが民宿に泊まったら「女房と寝てくれ」と言われた話。断ると、寝床に女が座って「抱いてくれ」と頼んできた。
これ、最初に読んでも意味が分からなかった。薬売りは賓客でもないと著者も書いている。
その後に、この辺りのおなごは『男だか女だかわからん山窩(さんか)のような娘』だという話も書いてある。見目のよくない女がせまって来たという意味で『ロマンチックではない話』なのかなと。男性視線の話というだけ?
一瞬、美人局の話で「後から金を出せと言われた」という話かなと思ったけど……そういうものでもなさそう。
・第一三話 お助け茶屋・鬼婆さの謎
お助け茶屋の鬼婆と言われていたのは誰なのかを探した話。資料と地元の人たちの話を読み解いて『おそらくこうだった』と導いてるのはすごいなと思う。
・第一四話 野麦峠・飛騨側と信州側
・第一五話 野麦越えの花嫁さん
飛騨(岐阜)側と信州(長野)側の対立の話。
14話は信州側から米が入ってこないので新しい道を作ると飛騨側が頑張ってみたけど、立ち消えたという話。
15話は飛騨側の村から信州側の村へ嫁いだ女性たちの話。
峠の頂上で若衆仲間たちが罵り合ってから、花嫁が受け渡されるというもの。これの元が『略奪嫁』だったのではないかという考察もあった。
親に反対された時に仲間がお膳立てする略奪と無理やりさらってきて説得するものがあったらしい。これは貧しい家で嫁入り支度もできない親のためだったらしい。
略奪婚の話って『花嫁を説得』する時間があるのは不思議なのよね。説得と言う名の『押し付け』でしかないけど。
・第一六話 中央線の開通と野麦峠
・第一七話 野麦峠の挽歌
時代の流れが書かれている。16話は鉄道の開通と飛騨の工女の働く場所の変化。鉄道開通で、岡谷ではなくてあちこちに散るようになったらしい。
17話は家族を亡くしてたった一人になった女性が工女として働いた金を持って村に戻ってきた話。戻ってくると、死んだ子供をおぶっている集団に出会う。病気だったけれど、無医村だったから間に合わなかった子供を背負っていた。それから間もなくトラックが野麦部落に入って来た……という話。ここまで、『峠越えが大変』という話だったのにトラックが通る時代になってしまった。
◆大正から昭和へ
・第一八話 死ぬ代わりだった「逃げた工女」
逃げた工女たちの話。いろんな逃げる理由があるけれど、『稼げないのに仕事がキツイ』から逃げるという理由が多い。稼ぎが少ないというだけで『恥ずかしくて家に帰れない』ので、逃げて別のもっといい工場に行った方がマシということらしい。
中には家に逃げ帰って、すぐに連れ戻されるという例もある。ただ飛騨側の工女は祭りの日に家に逃げ帰る。祭りの日は『何をしても許されるという風習』があったために逃げ帰ってもさほど怒られないという理由かららしい。
最後の話は、逃げたけど捕まって戻されて数か月後に首をくくった工女の話だった。逃げられなかったら、死ぬしかないという覚悟の『逃亡』だったという話。
・第一九話 長い銭湯と関東大震災
・第二〇話 繭倉にすすり泣く幽霊
十九話は逃げた工女が説得されて戻ってくる話。
二十話は工女の衛生と労働環境の変化。工女たちは湿度が高く高温になる部屋で作業するため水虫にかかりやすかった。薬を買う工女もいたけど、薬が高くて買えない工女がほとんどだった。悪化すると手の切断、最悪死ぬこともあった。また、目の病気になる者も多かった。暗い場所で繊細な作業をしているため目が酷使される。
……労働環境は良いとは言えない。
大正末期には義務教育の終えていない十二歳未満の子供を使うことは禁止されていたけれど、使う工場が多くて監督官が来た時だけチビたちを隠したという。けれど、隠したことを忘れて、閉じ込められたまま夜になって繭倉で子供たちが泣いていたのを発見するという話で終わっていた。
労働法(大正の頃は工場法)が守られないのは今も昔も変わらないのね。
・第二一話 男工哀史
二十一話は男(小僧)の扱いは工女よりも酷かったという話。賃金も低く、気分次第で与えられたり与えられなかったりもしたと。さらに工女よりも早く起きて準備して、工女の仕事が終わってから片づけをするという過酷さ。さらに暴力も酷いという事で『男工も哀史』だという訴えが来たという。
『それは学生時代、担任の教授に卒論の相談をした時のエピソードである。その時中村学生が、「私は農民史をやりたい」といったら、その教授はあきらかに嫌な顔をして「豚に歴史がありますか?」と皮肉たっぷりに言った。びっくりした中村学生は「先生、何をおっしゃるんですか、いまの日本は農民史の研究が一番遅れています。……』291-292p
これは明治初期の話となっている。差別意識の表れと同時に、農民がどんな風に見られていたかがわかる。教科書をつくっている学者たちがこの意識だったという驚きと共に書かれている。……時代と言えばいいのかどうかもわからない。強烈なエピソードだなと思う。
・第二二話 ペーパー詐欺の裏側
二十二話は儲け話に乗って金をとられたという話。贋金を売り渡されるという突飛すぎる詐欺で訴える者もいなかったが、贋金を買うためのお金のために破産した者たちは叩いたという。……いや。突飛すぎるし、純情すぎる。そして、そんな大金をやすやすと持ち歩ける時代……現代だと『怖い』と言われそう。
『本来軍需産業というものは、鉄砲でも大砲でも洗車でも、注文主は政府であり、したがって大口の資金援助があるばかりでなく、価格は契約した時からはっきりしており、売掛金を踏み倒される心配がないというまことに結構な商売であった。
しかるにこの製糸業だけは別で、軍需産業的要素をもちながら、何の国家的保障も、まして援助もあるわけでなく、おまけにバクチ的危険さだけは、充分に味わわしてもらえるという』294p
そのバクチをかけて、贋金を買おうとするのは狂ってると思う。製糸業がすでに狂ってるかもしれないけど……読んでると、ほんとバクチで狂ってないと出来ないよねと思う。
◆余聞・工女惨敗せり
「あゝ野麦峠」にも同じ章があった。新しい資料と情報だけど、前の本を読んでないと情報が足りなくて意味が分からなくなりそう。
・第ニ三話 争議団誕生の謎
・第ニ四話 信州製糸家への一大警告
争議団(労働組合)の成り立ちとその要求によって製糸家たちが受けた衝撃の話。
二十三話は労働争議の経験のある戸沢と男工だった佐倉が出会って争議団をつくろうとしたという話。チラシで人を呼び、最初は隠れるように人が入って来た。という初期から話が始まっていた。
二十四話は争議団の要求を製糸家たちは危険視していたという事が書かれている。
・第二五話 山一に就職した警察署長
世論が警察の弾圧が酷すぎたと言い始めて、警察署長をクビにしたという話。製糸工場がその警察署長を雇い入れたが、仕事はいばるだけ……とあった。
警察と製糸家たちの癒着のエピソードも、それくらい、製糸家は警察と連携していたということらしい。
・第ニ六話 新資料・六本の手紙
・第ニ七話 嵐の後も寒かった
争議団の形勢が悪くなると人が去っていったという事が書かれていた。工女たちもクビになり、村でも噂になり縁談にも差し支えた。
この山一争議の後には、他の製糸工場でも変化があったということも書かれている。
新潟県魚沼郡女工保護組合がつきつけた声明書。
『如何に世の中が開けましても人間は飽くまで人間であります。お互いが人間であります以上は使ふ主も使はれる者も共に人間としての人格を尊んで人たる道を守らなければなりません。然るに往々使ふ人と使はれる者との間に其労力を物品化して取引をせんとする傾向が見えるのは誠に歎かはしいことであります。』342p
まともな事を言ってるけど、現代でもまだ『人材』で人間の労働力は『材料』のひとつ。野麦峠の時代よりももっと巧妙でわかり辛い構造で搾取が進んでるような気がする。
・第ニ八話 湖畔に出来た極楽の殿堂
山一争議の後に出来た大温泉浴場の話。徐々に製糸業も斜陽産業になっていくけど、その後も時代に上手く乗って商品を変えて栄えていくという終わりになっている。
この本の出版からさらに50年近く経ってるけど、日本経済は沈んでるような気がする……と思ってしまう。この本が、『明るい未来』の終わり方になってるのは、それだけ未来は明るかったのだろうな……。
『続』の本は、製糸工場というより農村文化の話が多くて楽しかった。
『あゝ野麦峠』は製糸業についての本。
『続 あゝ野麦峠』は製糸工場で働いていた人たちの生まれ育った農村文化の本。農村文化、面白い。もっと他の本ないかな。
ごちそうさまでした。