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「あゝ野麦峠」を読んで

2024/11/12

あゝ野麦峠 新版: ある製糸工女哀史 単行本 – 1972/12/1 山本 茂実 (著)
あゝ野麦峠 新版: ある製糸工女哀史

「あゝ野麦峠 著:山本茂実」を読んでみた。

工女へのインタビューとあったけど、工女だけではなくて工男や茶屋の鬼婆と言われてた人たちやその地域の人など、範囲が広いなと思う。
工女たちの話は重くて、厳しいものが多い。当時の厳しさがわかる本だなと思う。

明治大正昭和と移り変わってきた製糸工場。
最初は『口べらし』の役目で「食べさせてもらえたらいい」というものだったので、給金も僅か。でもノルマも厳しくなくて、のんびりした空気があった。年末の工場を閉める時期も11月下旬ぐらいで峠が雪深くなる前に閉じて、工女たちは雪が少ないうちに変えることができた。
それが徐々に……輸出量が増え、質も求められるようになると厳しくなっていく。工場が締まるのも12月末になり雪深い中で帰ることになった。給金もどんどん上がり、百円工女と言われる者たちまで出てきた。当時は百円でいいお家が二軒は立った時代らしい。ただ、それは一握りで、ほとんどの工女たちはそれ以下で厳しい環境の中で仕事をしていた。

明治大正の頃は金を持って家に帰るので、おいはぎや強盗にもあう。昭和になって振込が普及し始めると明細だけを持って帰るようになったとあった。
最初の頃は男の格好をして工場に行ったというのも書いてあったのに、後になると女の姿のまま金持ってたの?そっちの方が危険じゃないの?と思ってしまった。工場に行くだけなら金も持ってないだろうけど……女って言うだけで犯されるっていうのと最初は人数が少なくて危険ってこともあるのか。後になると五百人くらいの工女が峠を越えたとあったから、数がいたら襲えないってことなのかな。

……五百人の工女の峠越えは想像がつかなかった。そんなに若い子たちがいるっていうのも想像がつかない。


ここからは目次ごとに気になった部分など。

・文明開化と野麦峠
初っ端から、峠の熊笹で赤子を産み落とした女たちがいたという話が入ってる。産み落として捨てるという話。そういう時代の話。「のうみ(産み)峠」とはそう言う意味もあったのではとも書かれてる。
12・13歳くらいから新工(シンコ)になる者が多かったけど9歳ぐらいから行く者も。
『ツォツォマ(父様)』『カカマ(母様)』……これは方言なのかな。カカ様はまだ分かる。ツォツォ……ととの変形?

『足の弱い工女をおぶって稼いだ人がだいぶいる。ひもで子供を負うようにして野麦峠を越えた(略)おぶう時はだれも軽い娘を奪い合うので、太った娘はしまいまで残された』27p

これは、それだけ厳しい峠だったってことだろうけど峠も越えられない女にも仕事をさせていたっていう厳しさもあるのかな。その中の一部はそのまま村で死を待つしかないみたいな話だったりもしそう。

・日清・日露戦争と野麦峠
富岡製糸が出来て、それを元に工場を立てて成功した村の話。工場が増え輸出が増えるに伴って、工女たちの争奪戦が激しくなった。

『(明治初年ごろ?)女でもみんな紺モモヒキをはいて男支度でいったそうな、一回なんかは野麦峠の途中で賊どもが五、六人たき火をしてあたっていたが、男だとわかると、なあんだという顔をしてどこかへ行ってしまったという話を聞いた。』46p
この後に自分たちの頃はそんなことはなかったと続く。男装する必要もなく峠を越えたと。それだけ工女の数が多かったのと、工女を連れてくる男手がいたってことなのかもしれないけど。

『七つの年に子守にいって学校は知らない。十二の年の麦を越えて諏訪へ来た。(略)初めの年は一年働いても三尺のモス切れ一枚だった。』47p
『昔はくちべらしに行くのだから銭のことは不平ではなかった。米の飯が食べられるので家にいるよりはよかった』47p
モス切れがわからない。帯にする布かな。年齢は数え年だと思うから現在の満年齢で考えるなら1・2歳差し引いた数字かなと思った。
ツイッターでも『米を食べられてよかったっていう話が野麦峠にあった』というのを見かけたけど、この辺りの話かな。ツイッターでは「農家なら銀シャリ食えるだろ」という現代っ子的なコメントもついてた。年貢にほぼ全部取られて『銀シャリ』なんて死の間際に食えたら幸運(死の間際でも食えない)の時代だと思うんだよね。農民はアワヒエを喰ってた時代。現代がかなり裕福な時代だって理解してないと、「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」レベルのヤバい事を平気で言うのよね。
本当に「パンがないならケーキを」と言った貴族王族たちを笑えないレベルの裕福な時代なのよね。

・古川の大火と野麦峠
古川の大火の話が最初に出てるけど……ちょっとした怪談っぽいなと思ってしまった。
異人さんがやってきて、おっかなびっくり宿に泊めると病気の娘のために薬をくれた。その後、地元の坊さんが異人が布教活動をしていると怒り狂って宿に行くと異人の姿はなかった。宿の娘が異人を隠して見つけられないようにしていたからで、その後無事に異人は旅立った……しかしその後、大火が起きて異人が関係してたのではという不気味な話になったと。
宿がこの大火で無事だったことも、影響してるらしいけど。こういう事件の話は読んでて楽しい。
この話に『着物ワラジ(靴)』『黒いワラジ(靴)』とあるの面白いなと思った。『ワラジ』は足の履物という意味なのかなと。革靴は『革ワラジ』?

『ケトウ(毛唐?)の足には指があるのか』とワラジを作った爺さんが心配するシーンも……。そこまで『人と違う形なのでは』と不安に思っていたという事がよくわかる。

『古川は飛騨では一番田んぼも多く恵まれた地方だから、本来なら米には困らないはずであるが、それを売ってヒエやアワに代えて食べる、そうしなくてはくらしがたたない者も少なくなかった。』64-65p
恵まれた土地でこれなら、恵まれてない土地はヒエやアワすら手に入らないことになる。食料のランクを落として衣服、住居の修繕、田畑の道具などを買ってギリギリの生活っていうことなのかな。それとも病気になる人が多くて、薬代?何にお金を使っていたのかがわからない。

・諏訪湖の哀歌
約定証に工女との労働の約束事を書いて契約していたという話。文字も読めない農家をだましているのでは?と思わせるような文章も混ざるということが書いてあった。
何かあった時の罰金がかなり高額で割に合わない。

『この契約がいずれも会社と親とで行われて、これに連帯保証人が二人もついているのに、契約当事者は本人ではなくて戸主、後見人、親権者である。それでもここにある契約書はいずれも金額が少ないものばかりであるが、これが後に記すような金額の多い者には年季がきまって渡す金も前借という名目の人身売買ともとれる。これでは遊女に売られていゆく娘とそんなに変わりはしない。』73p
ここにある、『戸主』は祖父で、『親権者』は父親なのかなと思う。書いてないけどおそらく母親(女)が契約書に名前が載る事もないのかなと。茶屋の契約書も載ってたけど、これは親側が反対したから茶屋が後見人になったってことなのかな。それとも親なしと言い張った子供の後見人になったのかな……と考えてしまった。この頃は子供、まして娘は『戸主』の持ち物で人間扱いされてないから、この契約書は間違ってないと思う。むしろ、この契約書に『本人の名前がない』と疑問を挟めるのはすごいなと思ってしまった。

この後に、工女自身も前借金の金額を知らないと書いてあるけど、遊女になるか工女になるなら、工女の方がマシだろうという親心はあったという話になりそう。仕組みとしては遊女とさほど変わりはない。さらに遊女も客が取れないと罰金があったらしいけど、工女も基準の糸(質の良い糸)が作れないと罰金があったので、遊女との差は『身体を男に売る』か『身体を糸のために売る』の違いぐらいに見える。
体罰の酷さに耐えきれず、逃げ出すものや死を選ぶものまで出てきたとなると、益々、『男に身体を売らないだけマシ』みたいな話になる。逃げる者が増えてきたから、監獄のような監視体制が出来上がっていったと……現代の「工場勤務」とはかけ離れたものに。
これ、土地のせいもあるのだろうな。外に出る道が限られてると『道を閉ざせば封鎖できる』という利点もありそう。(だから、道なき道を逃げる人が増えて、死んだのか生きているのか人もいそうだけど)

『村へ帰ったとしても、どこそこの娘は辛抱足らずだと村中に広がり、嫁にも行けないことをよく知っているから、みんなガマンしました。それで中には飛騨へは帰らずカフェーの女給となったものもいた。』93p
これ、どういう意味合いなのだろう。カフェの女給ってそういう仕事をしていた人もいたという話があったような。暗に『男に身体を売る仕事についた』という意味合いなのか。単に『都会に行ってしまった』という意味なのか。よくわかんないな。

死体は水車(製糸の動力源)にひかかって上がるというのも皮肉な話。百円工女と呼ばれた腕のいい工女で、病気で腕が落ちて叱責されるようになり、遺書を残して死んだというエピソードがこの章のラストに載ってた。5年契約で4年目に死んだと……。腕のいい工女ですらこの扱いという悲惨さ。

・弁天沖の哀歌
最初は製糸工場の繭買人たちの話。製糸工場は原料の繭が高いだから、だまして買ってくるという……あこぎすぎる。そして、その話が詳細に出てるのはもうそういう時代ではないってことだからだろうけど。昔は素朴な人が多くて騙しやすかったというのもあるだろうけど、それにしても……社長自ら騙し方をしっかり教えて繭買人を送り出すという。商売はそういう物といわれたら、そう言う部分はあるにしてもと思っちゃうんだよな。私、商売人には向かない。

そして、工女の集め方も時代と共に争奪戦が酷くなって人さらいの様な感じで連れてくることもあったと。遊女よりも酷い話になってるような……と思いながら読んだ。工女を集めるために『土産を持って村を回る』事をしたり、『種工女(宣伝用の工女)』を着飾らせて、工女になったらこんないいものが手に入ると村中の評判になる様にしてから工女を集めたりと、いろんな手を使ったと。
派遣も「お友達を連れてきたら、商品券」みたいなのがあった。こういう『お友達を連れてきて作戦』も工女集めで使われていたと……今も昔も人の集め方で一番有効なのは口コミなのだろうな。
根こそぎ女たちを連れていくので、村には男しか残らなかったと……ん?これ、現代の『若年女性の流出』の話にも似てると思いながら読んでしまった。
工女になった女は『ハイカラになっていて村の男たちには色目も使わない』という村の男たちの嘆きもあった。稼げない女は体罰で死んでいくし、稼ぐ女はハイカラになるから、結婚なんて村の男たちには夢のまた夢なのだろうな。だったら、体罰で死んでしまう女たちを減らしたほうが……と思ってしまった。

『わしは長年糸ひきをしてみて、十人のうち本当にいいのは二人か三人で、次は本人の熱心と努力でまあまあ何とか糸がひけるというものが三、四人、しかし残りのニ、三人というものはいくら教えても怒っても叩いても、この人たちは糸ひきには向かない人です。』116p
向かない人たちには地獄だったろうな。でも現代も似たようなもので、仕事の適性検査なんてほぼ無しで『できるだろ』で放り込まれてるから、今も変わらないような気もする。
海外では『専門性がある仕事』と『専門性が必要ない仕事』はきっぱり分かれていて、『出来るだろう』では放り込まないのだとか。「出来る人を雇う」「出来なければ解雇」そのかわり仕事のための学校などは無料か低価格らしい。日本は時代が進んだハズなのに、仕事のやり方は今も根性論でこの時代と変わらないのでは?と思う。

その後は親王殿下が諏訪に来た時に、水死体があがったけどそれが秘密にされたという話が載っていた。こういう話が出て来るのかと思ってしまった。

・天竜川の哀歌
天竜川沿いの村々で連続殺人が起きたエピソードから始まっていた。死体は肝が抜かれていた。犯人は造酒屋に出稼ぎに来ていた男だったが、死体の肝をどうしたのかは一切言わなかった。でも、この時代は『人間の肝』を薬にしたらいいという話もあったので、病気の薬として抜き取ったのではないかと。この犯人の生い立ちを調べると工女が産み落とした子供だったという事がわかり、工女たちの闇がこの事件に絡んでいたという話。

工女たちは肺炎で亡くなるものが多かったのではなかったかという疑惑も書かれている。ただ、数字としては出ていない。なぜなら、病気になると村に帰されて工場で死んだ事にはならない。また、肺炎に関連する他の症状を書いて『肺炎』とは書かなかったのではということも。さらにこの工女たちが村に帰り、肺炎を村々にばら撒いたという事まで書かれていた。工場がまさかの『ウィルスばら撒き場』だったという話はかなり驚き。
工場の状態もかなり悪くて、湿度が高く暑い場所で仕事をすることになるが、食堂など他の場所は寒くて寒暖差もあり身体が持たないものが多かったと。

肺炎の他には性病も目立っていた。なぜなら、工女を引き留めるために男をつかっていたので、そういう病気も広がったと……男をあてがわれたのは『稼ぐ工女』……遊女より悪質では? 稼いだために男に襲われて、性病うつされたり妊娠させられたり踏んだり蹴ったりな悲惨すぎる話。堕胎薬でおろそうとすれば、女も生死の境をさまよって、生き残れば堕胎罪で犯罪者。こうなると嫁ぐ事もできなくなる……え。なんの罰則?金を稼いで、これだけの罰則があるの怖すぎる。でも、稼げない工女は体罰で死にそうな目にあうという……どっちに転んでも真っ暗闇の地獄だなと思ってしまった。

・工女の残した唯一の記録
士族の娘も工女をしていたという話から。もちろん、そんなのは一部工場で、待遇もよかった時代の話。すぐにそんなのは消えていった。

『工場主をダンナと呼び、両手をついて迎える。工場労働者というより、これは封建的身分差か下女奉公の範疇を出ていない。しかしそれでもみかたによってはまたそれなりに安定した人間味も温かさも感じる。明治初期の工場生活というものであろう。』159p
体罰もそこまで酷くなさそうなイメージが……。人数が少なくてノルマもない時代かな。
明治前半は検査もなくて、量だけが必要とされていたともあるので、そんな時代の話。そこから質を求められて、人手も増えて体罰や罰金が横行していく。
無学が70%で部屋に一人だけの文字を書ける人に手紙を代筆してもらっていたとある。……家族も読めないのでは?と思ってしまった。その場合、村の『文字が読める人』に読んでもらうのだろうか。それともこれは『女だから学校に行けなかった』という話で男性は文字が読めたのだろうか……と思ったら、最後のあたりに学歴の一覧があった。男性でも無学の人が二割ほどいる。そういう時代??男性に無学がいるなら、女性はもっと無理だなと思ってしまった。そして、やっぱり家族も文字が読めない可能性の方が高い……。それでも手段がそれしかないから、書いてもらうしかなかったのか……侘しい。

その後は工女たちの賃金が事細かに検証されている。
ただ、工女たちの話は『たくさんの給金を貰えた。待遇も良かった』というものが多い。

『この人たちの話をきく場合、一つの前提をおいて聞かなくてはならない。それはこの人たちは健康で長生きできる体と、話す人はいい思い出の人が多いこと、つまり成績のよかった人であるということ、この陰の人を忘れてはならないであろう。」184-183p

こういう注意書きがあるのは良心的だなと思う。確かに成績が悪かった人たちは『死んでいる』か『黙っている』可能性の方が高い。悪いことを口にしたくもないだろうし表には出てこない。元工女たちの話だけが全てではないからこそ、資料もたくさん引用してある。

・雪のの麦越え
峠越えの話。五百人の工女が雪を踏みしめて峠を越える。最初は男衆。次は元気なものたち。新工は女たちの間。病人や歩けない者たちも背負って峠を越える。時には谷にも落ちるけど、帯を繋いで引き上げたとある。これ、本当?と思っていたら、後で工女の話で「谷に落ちて死んだ人もいる」となっていて、谷から引き揚げた話は引き揚げやすい場所だったとか何か理由がありそうだなと思った。そのまま鵜呑みにするのは怪しい。

『峠の寒さは手足ばかりでなく、ワシは目玉が凍みてしまい、長いこと眼医者に通いました。』207p
目が凍る……確かに目が一番隠しようがなくて危険。行き帰りが危険すぎるという峠越えの話がこの章だった。村が近くなると、親たちが茶屋まで迎えに来るという話や吹雪の中、外で寝る(!?)という話も……危険と背中合わせすぎる。
でも、数百人という数の力で峠を越えることができたという話。男一人で真冬の峠を越えようとしたら、凍傷で酷い目にあって戻って来たという話もあった。つまり、一人だと真冬の峠なんてとてもじゃないけど、越えられない。……いや。数百人いても何人かは谷に落ちたり、凍傷になったりしてるんだろうし安全ではないのよね……。うーん。

・工女の故郷飛騨
金を持っている工女を目当てに、振袖を売りつける呉服屋が峠を越えるという話から始まった。工女がかなり稼ぐようになると工場側も工女集めに金をかけるようになって、行き帰りの泊りの金や荷物を送る金などこまごまとしたところにも金を出すようになったという話。
最終的には寺の建て替えの金も出すようになって、玉垣には製糸工場の名前がずらりと並んでいる。これがいい宣伝になったという話。宗教を使うのは一番いい宣伝になる。

『婚礼にしても、その家柄によってはっきりした等級があって、貧乏人は丸まげに羽織と決まっていましたし、カンザシをさしてはならない。中位の人は黒(喪服のようなもの)を着てカンザシ二本、そして上位の衆は、着物は紅白のうちかけ、カンザシは四本、中ざしがベッコウ。これは村でも一、二番といわれる家柄で、はっきりしていたのでございます。
そのしきたりを破れば税金の等級をあげられ、世間のもの笑いになるうるさいものでございました。』224p
だから、下位の家の工女が金を持っていても大っぴらに『良い着物』は買えなかったという話。農村には農村の階級差別があった……って、初めて知った。両親の結婚で「家の格が落ちた」と言われたらしいけど、それもそういう階級差から来ていそう。つまり農村部の階級差別の名残が1970年くらいまではあったのかなと。地域差もありそうだけど、私が住む場所ではそういうのがまだ残っていた。
こういう農村部の話は興味深いなと思う。もっと知りたい。

・女工惨敗せり
岡谷の山一組でのストライキの話。
この時代にストライキ??と思ってしまったけど、確か遊女たちもストライキ……いや。あれは放火をして訴えたっていう事件でストライキとは少し違うのか。
そのストライキのいきさつが事細かに書かれている。争議団という名の労働者側の訴えは労働組合の設立と、食料状況改善、さらに賃金の割り増しと体育・娯楽施設の整備など……なかなか、現代的だなと思ってしまった。
寮に立てこもって仕事の放棄を決行したけど、最終的に食事を断たれて寮の外で慰安会を行った間に工場を閉ざされて、中に入れなくなったという終わりだった。それでも、争議団のトップは話し合いをしようと手を尽くしたけれど、警察に拘束されていき最終的に解散するに至ったという。
なぜ、寮の外に出ちゃった??という疑問はあるけど、外に出された千人余りの工女たちは雨の中立ち尽くしたという。千人はきついと思ってしまった。私、中学の時の全校生徒数が八百人と少しだったのよね。それで考えても、大変だろうなと思う。

『「あれは木曽から応援に来た警官だったが」とおかみは回想する。――その警官の一人が突然こんなことを言った。
「俺の妹も製糸女工だ」(略)そしたら、「そうか、おれの妹も実はこの岡谷で二人働いている」といい、もう一人は、「おれの家はおふくろも姉も妹も女工だった」』265p
これは争議団鎮圧のために動員された警官たちの話で、警官側も家族に女工がいる人が多かったという。警官側も捕まえたくなかったのだろうな。

・興亡・岡谷製糸
製糸企業家側視点の話。要は製糸行は糸の値段が乱高下しすぎて、『黒字になるかどうかは博打』だったという話だった。だから、工女の対応が厳しくても仕方ないとか、それでも企業側は工女の給金だけは確保したとか……。時代って言うのも分かるのだけど、なんていうか……どこまで、本当なのだろうと思ってしまった。
工女たち自身も待遇は悪いと思ってなかったというのもあったけど、それは農村の仕事がもっと過酷過ぎたからというもの。右も左も地獄しかない中では『工女』はマシな部類だったていうだけ。うーん。それは、そうなのだろうけどと思いつつモヤっとしたものがぬぐえない。でも、この時代は『人権』なんてまだないし、人間は労働力でしかないし、働いても食えない時代だし……。そういう時代と思うしかないのか。

『ワシがこの家で気に入られたのは口が大きくてガマグチに似ていてメデタイというので大事にされました。(略)もう駄目だという時でもワシのつれあいは笑ってました。そのくらい太っ腹の度胸のすわった人間でなくては、製糸相手には生きていけません』304p
製糸相手に米と味噌を売っていた商売をしていた人の妻の話。製糸は博打と同じなので、赤字になると金が取れなくなる可能性もある。だから、様子は常に見ていたという話も書いてあった。製糸相手に商売する側も一蓮托生になる可能性があるくらいには『売上がいい』取引相手だったんだろうな。

『山の木を切り、石を片づけて焼畑をつくり、ヒエやアワをつくるが、それでも一年食べるほどはなく、木材を背負い、雪の中で炭を焼き、ワラビ根を掘って夜なべにワラビ粉をとってヒエとかえる。そういう仕事を朝暗いうちから夜なべを十時十一時までもしなければ、そのヒエ飯にさえありつけなかった。』314p
農家の仕事が書かれている。これ『ヒエやアワをつくる』とあるけど、この他に田んぼの作業もあるってことだよね。……米は取られて、アワヒエを別で作って食べるしかない状況ってことなのかな。アワヒエと比べたら『米』は美味しいし、工女の待遇が悪いとはいえ農家よりはるかにマシというのはその通りなのだろうな。あと、病気になると『放置された』みたいな描写があったけど、この時代はそれが普通だったとある。医者も呼ばなければ、薬もない。寝転がしておいてくれるだけマシって事かもしない。農家だと体調が悪くても『さっさと働け』と追い立てられる環境だったのかも。働かないと家族が食べるものがなくなるから。

『筆者は、長年この調査をしていて気付いたことは、工女の故郷の人々で、女工哀史というと一様にけげんな顔をすることである。彼らは決してそう思っていないのである。』319p
これを読みながら、ハリーポッターの屋敷しもべドビーを思い出してしまった。ドビー自身は「これが当たり前」で自分が可哀そうとも思ってないのよね。その環境しか知らない人間は自分を可哀そうとは思わないし、少しでもマシになったら天国だと思う。でも、天国にいる人間は少しでも環境が悪くなるとそこが『地獄』にしか見えない。どちらがいいとも言えないけど、天国にいる人間が地獄にいる人を「可哀そう」と思うのも言うのも違うから、『哀史』は違うのかなと思う。ただの『歴史』で『文化』

・野麦峠のお地蔵様
最後は野麦峠の地蔵の話になっていた。この峠で子供を産み落とした女がおそらく地蔵を立てたのだろう。それはどこにあるのか……と探した結果、道が変わって地蔵も移動させられて、新しい道にあった地蔵がそれなのだろうというという結論。(でも、違う点もあるらしくて、実際にはよくわからない)

峠の話で終わってた。
その後は糸ひき歌や資料など……ずらっと並んでる。


濃厚すぎた。製糸工場の歴史もだけど、農村の状況や文化も書かれていて、これをもっとわかりやすくしたものを読みたい……と思ってしまった。

さて、次は『続 あゝ野麦峠』を読む。


『あゝ野麦峠』