子どもたちは、いま 単行本 – 1999/8/1 トリイ ヘイデン (著), 斎藤 学 (著)
「子どもたちは、いま 著:トリイ・ヘイデン 斎藤学」を読んでみた。
トリイの本はほとんど読んだ(感想を書くようになる前だった)けど、この本は読んでなかった。
理由は小説ではなかったから。図書館でも書庫に入ってるし、わざわざ出してもらってまで読みたいわけでもないと思ってたけど、他の本と一緒に書庫から出してもらうことにした。
小説ではないし、1999年の対談だし、古い情報かなと思ってたのに……違った。古くない。基本というか、基礎になる考えが詰まってた。
どうしてもっと早く読まなかったのと本に対して思うことはあまりないけど、この本はそう思ってしまった。
トリイの本は全部好きだけど、トリイについては正直『知りたくない』という気持ちも働いた。好きだから知りすぎて嫌な部分が見えたら嫌だなと……そういう気持ちもこの本を読まない選択をしてしまった理由。でもトリイの事がわかって、フィクション小説の意味がやっと『これがトリイが書きたかったこと』なんだなと飲み込めた。ノンフィクション作品は好きだったけど、フィクション作品については正直、よくわからなかった部分がこの本を読むことで繋がった感じがした。
目次ごとに見ていく。
第一部 傷ついた魂の叫び
最初はトリイの話からだった。どこに暮らしていて、どうして子どもたちと接することになったのか。その中でも選択制無言症の研究をすることにしたというのは初めて聞いたような気がする。だからノンフィクションの中に度々、選択制無言症(場面緘黙の方が今は一般的な気がする)の子供がでてきたわけだ……と思ってしまった。
そういう話で最初の講演が終わって質疑応答。
”燃え尽きてしまった”教師の質問への回答になるほどと思った。教師がサバイバー(虐待経験者)だった場合、子供への支援は難しくなる。なぜなら、子どもの気持ちがわかりすぎてしまって、切り分けて考えることができないからとあった。
そして、目標を『子どもたちの状況を良くしてあげたい』『子どもたちの人生をよりよいものにしてあげたい』という部分には設定しない。『毎日をどう過ごすか』という事が目標。
(もちろん、気持ちとして「子どもたちの人生を良くしてあげたい」というものはあっていい)
という事が書かれていて、ノンフィクションはそれしか書いてなかったなと思った。ノンフィクション作品のままの姿勢がすごく好き。
一部の前半だけでもう、お腹いっぱい。
さて、一部後半は虐待のあとのプロセスと癒しのプロセスという事が書かれていた。
このプロセス部分だけでもこの本の価値があると思ってしまった。もちろん、トリイの事がわかるというのも良かったけど『虐待・トラウマの経験後の癒し方』がこれだけわかりやすく書いてあるの良い。一応、トリイの経験からの話と断りが入ってる。論文などがあるわけではない。
まず、虐待のあとのプロセス
・虐待後に最初に来るのは”ショックと否認”
・二番目の段階は”怒り”
・三番目の段階は”罪悪感”と”うつ状態”
・最後、四番目の段階”受け入れ”
最後の受け入れ段階に向かうための癒しのプロセス
・第一「起こったことを認めるということ」
・第二「これは起こるべきことではなかったということをはっきりと認める、認識するということ」
・第三「自分が虐待されたこと、そこで自分が感じたことを表現すること」
これらはこの本では『虐待』となっているけど、他のトラウマなどでも応用できるのかもしれない。
第二部 子どもたちと共に歩む
第一部だけで胸焼けを起こしそうなくらい情報満載だったので、第二部も期待していたら……最初の方は第一部と同じような話が続いていた。『講演』を基にしてるので、たぶん話した内容がさほど変わらないためにそうなってるのかなと。
『愛されない子』の本の話も出ていて、図書館で子供たちが大暴れして大変だったけどそれが楽しくて幸せだったという事が書かれていた。こういうのがいいなと思う。図書館はめちゃくちゃだし、そこにいる子たちの未来は決して明るくはないけど、この時この時間だけはそのめちゃくちゃなことが幸せで楽しい。そう言えてしまうのは素敵だと思うと同時に、私にはそれが無理でそう思える思考回路を持っていない事も分かってしまう。図書館のルールは絶対守らなきゃっていう硬い頭しか私は持ってない。
トリイは私にないものを持ってるからすごく素敵だなと思ってしまう。
第二部前半は一部とほぼ一緒。
次は二部後半。
トリイの想像力豊かな子供時代の話から神戸殺傷事件の話になる。神戸の少年Aは言葉で考える子どもではなくて、映像で考える子ども直観像素質者だったという話から、言葉と理解することの相関性。そこから、シーラが『現在形』しか使わなかった話へとなっていた。……『シーラという子』の細部を忘れてしまった。読み直したい。
現在だけが安心だったから、現在形しか使えなかったのではないかとなっていた。うーん。よくわからない。日本語で現在形だけっていうイメージが出来ないせいかな。
さらに選択制無言症の話がここで書かれてる。トリイが関わった子供たちは全員、話すようになったという話。機能的には話せるので『その場が安全』と分かれば話す。ただ『他の場所で話せるようになる』かは別なので、トリイの『謙虚に「はい」』ってどういう意味だったのかなと思ってしまった。やっぱり、自分の前では話してくれるようになったけど、別場所ではダメだったのだろうか。
と思えば、斎藤さんの話で「父親に暴力を振るわれていた子は自分とは話すようになったけど、家庭では話さなかった」という話で「それは適応が上手かった例では?」とトリイが返してた。私もそう思う。話さない事でメリットがある(余計なことを言わない分殴られる回数が減る)なら、そうなると思う。こういうのは『環境』の問題だけど、こんな分かりやすい例は少ないような気がする。
最後にいじめの話。これは日本だけではなくて、他の国でも問題。とくにイギリスでは発音で階級がわかり、それがいじめに繋がると。ええ?発音なの?シビアすぎる。日本だって、階級が違えば多少使う言葉や知識に変化は出てくるけど……そこまで明確にわかるものでもない。と思ってたら、日本語は二人称で差が出てくるとあった。「お前」と呼ぶか「あなた」と呼ぶかの違いみたいな事らしい。……ああ。確かに「お前」って相手を下に見てる言葉でそこで『差』を出してくることはある。お国柄についての話になってしまった。
第三部 こどもたちは、いま
3つめの講演。本のタイトルにもなっている。
いじめの話について。
いじめは自然な行動だけれど、よい行動ではない。文明社会ではそれをコントロールしなければならないものとトリイは言っている。これ最初の『いじめは自然な行動』という部分だけ見ると「だから、仕方ない」になってしまうので要注意。
この本には対策案も書かれてる。
*いじめられる側への働きかけ
・今まで何が起こったか、どうやってその子がそれに対応してきたかを訊く。
・第三者に介入して欲しいか、何か対処してほしいかという事を訊く。
・第三者に何をしてほしいかを訊く。
*イギリスでのやり方
「まず最初はいじめを無視しなさい。二回目は”NO(それはしないで)”といい、三回目には”NO(やめろ)”と強くいいなさい。四回いじめられたら誰かに話しなさい。先生に言いなさい」(”NO”の部分は本書では”ノー”となっている。日本語訳はない)
*仕返しは適切ではない。仕返しをすると、その状況が悪くなる場合がありますし、大けがをすることになるかもしれない。また、仕返しをしたことでいじめられていた側が責められるかもしれない。したがって、子供には仕返しをしないように伝える。
この辺りの情報は有益だなと思った。古い考えだと『やり返せばいいじゃない』みたいなのがあって、モヤっとしてたけど仕返しダメ。
*いじめる側への働きかけ
・なぜこの子どもたちはこのようないじめの行動をとっているのかを考える。
・「いじめは間違っている。容認できない事である」ということを説明。
・いじめられる子供の気持ちを分からせる。(ただし、デリケートに扱う事)
― 教室全体でいじめられっ子がどういう気持ちになるのかという事を話し合うなど
・いじめる側の子どもが協力的なよい行動をとった場合にはほめることが必要。
・監督責任を持っている人たちに対しても、いじめをさせないように監視をした方がよいと警告を与えることも必要。
すごい。これ、日本だと被害者排除。加害者放置なのに、イギリスの対応……なのかな。すごくしっかりしてて、うらやましい。
*傍観者たちへ
・いじめがある時に止めに入らないこと、何もしないということは、いじめをしても構わないと言っているのと同じだと理解させる。
・誰かがいじめられている場合、それに加わったり、一緒になっていじめたりすることは決してみとめられることではない事を教える。
・いじめられている子供に対して、その状況からの逃げ道になる事を言ってあげたらどうかと教える。「○○ちゃんは早くうちに帰らなければならないんじゃない?」など。
・誰かがいじめられていたら、助けてあげなければならない事を教える。
・信頼できる大人に伝えることが必要と教える。
ポイントがしっかり押さえられている。つまり学校全体。社会全体が『いじめはダメ』という意識になる必要があるということ。
本のタイトルになってる講演だけあって……内容が盛りだくさん。
さて、後半。
これもいじめの話の続き。
自己評価が低い子供がいじめをしやすく、受けやすい。では、その肯定感はどこで低くなるのかという話になってる。それは『完璧さを求める』からではないかと。
だから、完璧を求めずに『まあまあ』のものを求めた方がいい。親も完璧な親を目指さずに『まあまあの親』でいい。『まあまあの子ども』で充分じゃないかという話。
まぁまぁが許される社会の方がいいな。
最後は質疑応答。
その中の一つが気になった。
『いま、日本の若い人たちは過剰適応というか、自分の考え方や価値観を持つ前に、周りの考え方や価値観にがんじがらめにされて、摩擦を起こさないで、つまり「どうしてこうしなきゃいけないのか」と自分なりに考える前に、もうそういう状態にならされてしまっている子どもがとても多いように思うんです』p220
この時代私もまだ子供だったけど、この感覚わかると思ってしまった。考えることができない。全部答えが用意されてて、仮に疑問に思って質問をしても『そういうものだから』と返ってくるような気がして質問も出来ないみたいな感じがあったなと思う。なんていうんだろ。「言わなくても分かるだろ」って大人たちは何も説明してくれないような感じ。
神戸殺傷事件もだけど、あの頃『なんで人を殺してはいけないのか、なぜわからないんだ』みたいなことをテレビでも言ってた気がする。つまり、大人たちは「わかって当たり前だろ」の世界で、子供としては『そういうルールだからそうなんだ』と飲み込むしかない。
本当はここで「なんでだろうね」という話から、「死んだら悲しい」「殺されたくない」「誰でも殺していいことになったら、大切な人が殺されるかも」みたいな話まで、いろんな意見が出てきてもいいんだよね。でも、大人の世界は「なんでわからないんだ」っていう声と「命は大切」と繰り返すだけだった気がする。
命は大切だけど、なんで大切なの?と聞けば、「なんでわからないんだ」と返ってくるみたいな。『わかっている事でも言葉として確認したい』のが子供で、それにちゃんと答える。もしくは、一緒に悩むような大人がいないんだよね。
そしてそれは、現代にも続いていて、むしろ現代の方が『言わなくても分かるだろ』の空気が強くなってる気がする。だって、大人はもう子供の声を聴く余裕がないから。その辺りでひずみが起きてるような気がするな。
『あとがき』は斎藤学さんの話だったけど、「心的外傷と回復」の本の話がちらっとでているのには驚いた。この本、読みたいなと思ってるのに最寄りの図書館にはないし、買うには高いしとまだ迷ってる本。この本も読みたくなってしまった。
トリイ自身もサバイバーで、母親が若い時に出来た子供だった。母親は育てられなかったので、祖父母の手で育てられ楽しく暮らしていたのに、十代前半に母親に引き取られて環境ががらっとかわってしまう。そこからいろいろあって、大学で子供に関わることになる……。でも、元は生物学専攻で、子供と関わるつもりはなかったとか。人生、何があるかわからない。読んでるだけで、なんか、よくわからないけど、すごいと思ってしまう。
トリイのファンだけではなくて、『いじめ』にも興味がある人には役立つ本。
トリイ、好き。この本を読んで、ますます好きになってしまった。他の本を読みなおしたい。