約束された場所で (underground2) 文庫
;– 2001/7/1 村上 春樹 (著)
「約束された場所で アンダーグラウンド2 著:村上春樹」を読んだ。
アンダーグラウンドの方を先に読もうと思っていたけれど、色々あってこちらを半分読んでからアンダーグラウンドを読んだ。そして、アンダーグラウンドを読み終えてから、残り半分に戻ってきたという感じで、教団側インタビュー前半→被害者インタビュー→教団側インタビュー後半と読んだので、思考をこちらに持ってくるのに最初戸惑った。
やはり、被害者と加害者……ではないけど、加害者集団の思考は違う。
そして、加害者側集団ではあるが、加害者ではないという何とも微妙な立ち位置の人たちへのインタビューなのがまた複雑な気持ちにさせる。
アンダーグラウンド2は元オウム真理教だった人たちへのインタビュー。まだ抜けてないと言う人もいた。
こちらは8人分なので1と比べると少ない。そして、軽い。260pぐらい。
男性たちは『言葉で説明が出来る』という点に惹かれて入信というのが多いような気がした。
女性は二人しかいないが、どちらも『思考放棄』のような気がする。一人は明確に『思考放棄』と書いてあって、もう一人は『ノリ』となっていたが、要は考えなかったという事だろう。
ただ、そう言う意味で言えば、男性たちも『自分の言葉で説明をしない』という点においては思考放棄なのだろう。
あれこれと理屈をつけているが、他人に自分に思考を任せた時点で思考放棄なのだから。女性たちの方が明確に自分の状況を把握していたのではないかと思った。
そして、差別はここでもはっきりと目に見えてしまうなと思った。
男性たちは主に『殺伐とした空気』を感じる場所にいたようで、インタビュー内でもそう言っている人たちが複数いる。実際に暴力を目の前で見たり、体験したりして「殺されると思って抜けた」という人もいる。
でも、男性がほぼ現状把握して抜けているのに対して、女性側(と言っても二人だが)は事件後にそこにいられなくて抜けている。
一方はまだオウム真理教が事件を本当に起こしたのかを疑ってさえいる。
一方はそもそも記憶自体が消え去っている。
私はインタビューの中でこの『記憶の消えた女性』の話が一番怖かった。
下手をしたら『死んでいた』可能性のある人なのではないかとすら思う。暴力を目撃したり、体験したりして抜けた男性と違って、この女性は『麻原の性的な誘いを断った後の記憶が消えている』
それだけで、ホラーである。しかもその期間は約2年。その間に何をされたのか。なぜ、記憶をなくすことになったのか。彼女は何も思いだしていない(唯一、スーパーで働いていたような記憶があるというだけ)ので、一切が謎なのだ。
もしかしたら、2年の間に子供が出来ていてもおかしくはないし、その子供を殺されていてもおかしくはない。いや。何があったのかは分からないのだが、わからないからこそ怖い。
目が覚めたら狭い部屋で監禁状態。昔は優しかった人が今は冷たい対応をしてくる……いや。それってさ。つまり。とあらぬ方向に妄想がふくらむ。
彼女は電気ショックの跡が身体に残っているという。そのせいで記憶が消えたのだと説明されたと。
ホラーすぎる。
しかし本当に怖いのは女性自身が「思い出したいとも思っていない」ような感じな事だ。文字だけなのでニュアンスが分からないが、『知りたくない』のか『思い出しているけど、それが事実だと思いたくない』のか『完全に気にしていない』なのかが分からない。
警察がきて自分は加害者側だと思った……というのには、何とも言えないものを感じる。記憶を消されている彼女もある意味では被害者なのだ。しかし、その被害は誰が加害を行ったのかが全く分からない。そしてオウム真理教は確かに加害者側の集団ではあるが、その中でもまた被害を受けている人がいる。
集団というのはこんな時に困る。
もちろん、オウム真理教は犯罪を犯したのだが、あまりにも巨大な組織でその犯罪に加担したのは一部でしかない。さらに言えば末端は本当に何も知らない。そんな人達も責められるべきなのだろうか。
ロシア軍が何も分からずに戦場に向かわされて、『住民を解放するため』とと言われていたのに、住民から攻撃されたという話を思い出してしまう。末端は正しい情報を貰えない。なのに、責めだけを負う。
私がオウム事件の本を読む気になったのは、統一教会の事件があったからだ。宗教が起こした事件について、改めて少しだけ知りたくなった。読めば読むほど、憂鬱になる。現状は何も変わっていない。
むしろ『何が問題なのか分からない』と堂々と言えてしまう社会が広がっている。
問題点をあぶり出す言論は多々あるハズなのに、それについて一つ一つ説明するのではなくて全てまとめて『何が問題なのか分からない』と言ってしまえるのは恐怖だ。
それは問題を無かったことにされてしまう。宗教の怖さをオウムで知った。でも同時に『オウムのように他者攻撃のための武器を作らなければ問題がない』と、他の問題を矮小化させてしまう事になっただけなのだろうか。
その無関心さが、新たな犯罪を起こしたのではないのだろうか。
『金をとられても、命を取られたわけではない』
命はとられていないかもしれない。けれど、人生の全てを奪われて問題を過小評価され続行けていたら、歪んでしまう人の気持ちは分かる。
犯罪は犯罪として裁かれるべきだ。しかし、それとは別に問題は問題としてあぶり出し対策を立てるべきだ。
あの頃、オウム真理教にいた人たちを異端者扱いした社会。
今、旧統一教会を擁護して問題を過小評価する社会(というか、国か?)に成り下がっている。
2冊の本を読んで、今の時代はあの頃よりも悪化している気がしてならない。