本を返さなければいけないと思ったので、ブログ更新を後回しにして
本だけ読んでた。
最近の更新はこれだけ。
まだまだ駄文を書き足りない。
というか引きずっている。
なので、検索してネットの海を彷徨ってみた。
本を出版するにあたり、批判があったという文章を見つけた。
でも『同じような感覚を持つ人達に、生きていたらこんな出会いがある』と示すために出版する…というような感じで、出版されたらしい。
ああ。
なるほど、そう思う人がいるのか。と始めて気が付いた。
私は真逆の事を感じた。
『人(他人)も本(物語)も人間一人を生かすことが出来ない』
『人間はどこまで行っても孤独で悲しく苦しい存在でしかない』
『死に近づけば近づくほど、人は自分の言葉を語らない(語れない)』
:私は大丈夫
:普通の人ならできるから私も出来る
……そう言い始めたら、それは『大丈夫』ではないし、『他人と自分の区別』もついていない危ないサインだと思う。
引きずられそうで読めない……と言うのも見かけた。
2003年2月の日記までは、引きずられそうな記述は少ない。
2003年3月末から危ない記述が増える。(引用も増えるが、数少ない日記は欝々としている)
記述は2003年4月で終わっている。
気になるどうしよう……と言う人は、最初だけ読むのもいいかも知れない。
彼女は『普通の人』ではなかったのか?
普通という言葉があまり好きではない。
普通の範囲は状況や文化その他いろいろで変わる。
現代日本が『過剰労働』が普通であるように。
男は肉体労働、女はお茶くみが普通だと言う人間がいるように。
『普通』は大抵の場合、多くの成人男性の価値観で決まっている。
そして、大半の人間が苦痛なく『普通』に染まる。
彼女は『普通の人』ではなかったと思う。
けれど彼女は『ただの人』だった。
『普通ではない読書量』
『普通ではない感性』
『普通ではない世界観』
特化した能力ばかりを見てしましそうになるけれど、
彼女自身がその能力に価値を見出してないのならば、それは何の意味もなさなかった。
ただの人間は物語のキャラクターとは違う。
自分の能力を把握し、状況を把握し、環境を整え、能力を生かす。
どんな落ち込む環境でも這いあがる。
そんな万能型は物語の中のものでしかない。
そう思った。
感想に書き忘れた。
私はもう
『知ろうとしていい』のかもしれない。
今の私は幼子ではない。肉体の終わりは見えかけてる。
完成された時間と崩れていく時間を比べれば、崩れていく時間の方が身近にある。
だから、『気が付いていい』『知ろうとしていい』『判っていい』
だって世界はこんなにも愛しいもので溢れているのだから。