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「八本脚の蝶」を読んで

2024/01/15

八本脚の蝶  著:二階堂 奥歯

それは『綺麗な物語』だと思った。
綴られる言葉はキラキラと輝いていて、私の知らない異世界を見せてくれているような気がした。
それがラスト50ページ。
最後の日まで約ひと月。
唐突にそれは『物語』ではなくなった。ただの『日記』だったのだと気が付いた。
グラッと崩れた世界は、本の引用で辛うじて姿を保つ。

『ほら、世界はこんなに綺麗な物語がまだある』

と示すかのように。


けれど、その裏側が時々ちらりと見える。
見える度に私は、ガッカリとしてしまう。
これはただの『一人の女の子の日記』なのだ。


そう彼女はただの『一人の女の子』以外の何物でもない。
知性も教養も兼ね備えたスーパーウーマンではない。
無邪気ささえもただの仮面で、『泣き叫び恐れ、自分を守ってくれる誰かを求める女の子』私の中にもいるそれは、異世界ではない。

よく見知った、かさぶたの中に閉じ込めた私の中の女の子。
彼女の中の『女の子』を見つけてしまう度、かさぶたが剥がれて、私の中の女の子が泣き叫ぶ。
それを抑えて、私は『物語』を終えて、『日記』を読んだ。



読み終えてがっかりしてしまった自分に、罪悪感を抱く。


最初は『日記』として読むには世界が遠すぎた。
共感できるものは見当たらない。
言葉は綺麗だが嘘くさい。だから、『物語』だと思った。
そうして読むことで、私は言葉を咀嚼した。
時々、彼女が垣間見えたと思えた時だけ、言葉は飴玉のように溶けていった。
『物語』だと納得してしまっていたところで、『物語』は消えた。



最後のひと月。
彼女が書いたのは『日記』だった。
書いてはいけない言葉と、書きたい衝動の間でのギリギリの言葉のように見えた。
そして彼女は、『ただの女の子』としていってしまった。

そんな風に私は読んでしまった。



けれどこれもまた、一面で真実は別にあるのかもしれない。







ここから先は、ネタバレしちゃうよ。


というか、綺麗な言葉で書こうとするのに疲れてしまった。限界。
毒されるほどの良書ではあったんだなぁと思う。



まずは……なぜ、この本を読もうと思ったか。
人様のブログに影響されたのです。

この本の感想が書いてあって、『この人の前に、「死なないでほしい」と差し出せるものがない』みたいな事が書いてあった。(色々湾曲してますが、まぁ。こんな感じ)
で、それを読んだ私は田植えのイメージが沸き上がったのです。
若くして死んでしまった奥歯さんは『田植えをした事があるのだろうか?』と、それが知りたいがために読んでみたくなりました。

ネット上にブログがあると知ったので、それを検索した。
最初の方だけを読んで世界が違いすぎて断念しそうになった。

けれど、図書館で探したら『本』があったので、本を読みました。
(私が読んだのは『本』なので、編集されてる個所もあると思う)


で、読んで奥歯さんが田植えをしたという表記は見当たらなかった。
けれど、かなりのお金持ちらしい。お庭があって、池があり、石畳があって、裏庭があって、薔薇が植えてあって……ごめんなさい。想像力の限界。

彼女自身は『読んだ本の殆どを持っていない。借りたものがほとんど』みたいな事を書いていたけれど…
読んでる量が半端ないので、借りたものがほとんどだとして、持ってる数もかなりあるハズ……と思った。

これを、異世界だと思わずに読むのは無理です。


私は普通に田舎の一軒家の子供なのです。田植えや稲刈りを手伝い、花を愛でると言えば、コスモスやタンポポと言った野草です。


おそらく彼女に田植えの経験はなかったんじゃないかな……と思いました。書いてないので、判らないけれど。

そして、妄想する。『田植えなんて泥だらけの事、乙女がやるものじゃないわ!』と言われそうだ……と。
彼女の美学からは反していそうだな。いや。わからないけど、文章も中身もそんなお嬢様な感じなのだ。



最初の疑問は一応、解決した。(分からないという答え)



で、次に沸き起こるのは

『彼女はなぜ死を選んだのか?』


25歳。
知識に教養、容姿もあって、愛する恋人や家族友人もいる。
仕事も順風満帆。(のような事が書かれている。事実かどうかは別にして)
彼女が死ぬ理由はどこにもない。
やりたいことも書き連ねてある。


唯一、ギリギリの『生(存在)』の言葉が時々、にじんでいる時はある。


ーーーーーーーーーーー引用ここからーーーーーーーーーーーーーーー

2002/3/13(水)

自分の死を、生を、存在を価値づけてくれる何かを今更信じるなんて出来るだろうか。

(略)

私は一人で立っていられないほど弱いのかと問えば弱いと答えるしかない。
だからたまに自分を支える物語が欲しくなるけど、それは転落であり不誠実な態度だという気持ちがいつもつきまとう。
いつでもその根拠を支える根拠を問うことができる。だから信仰はいつも仮のものだ。現実はいつも定義されたところのものだ。
これに根拠はない。しかしこれを現実としておこう。そうやって日々を生きている私が、今更どのような自己欺瞞を行えば何かを信じることができるだろう。


ーーーーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーーーーー


こういうのなんて、ドキリとする。
これが『不誠実』で『欺瞞』であるのならば、生きてはいけない。

ただ、同時に彼女のこの思考はどこから来たのか、知りたくなる。知りたくなるが、私では追いつけない。
いくら読んでも、彼女の思考の欠片しか掴むことが出来ない。

いや。欠片も掴んではいないのかもしれない。



ーーーーーーーーーーーーー引用ここからーーーーーーーーーーーーーー

2002/09/27

しかし、恐怖の無根拠性に対してはどうだろうか。
恐怖に浸透された日常。
恐怖は現実のものだ。それは私の身体機構とその化学組成のバランスを崩す。
物理的に影響される私の身体。そしてその身体によって測られる(アフォードされる)外界。

問題は、この恐怖には理由がないとはっきりわかっていることだ。
根本的な対策はないということを私は知っている。
その無根拠性に向きあうこと。
毎日、恐怖とたたかい生き延びること。


ーーーーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーーーーー



……よく判らなくて、『無根拠性』を調べてしまった。
簡単にいうと、根拠のない事らしい。そのままだった。
そして、難しい事を考えたくない私は思う。
眠って(普通の睡眠)しまえば、恐怖がないなら『肉体が存在するという認識』が恐怖なんじゃないのかな?と。

いや。違うのかもしれないケド。ごめんなさい。なんか、書いてて怒られそうで怖い。




ーーーーーーーーーーーー引用ここからーーーーーーーーーーーーーーー

2002/11/2(土)

私が黒百合姉妹を知ったのは16歳の頃だ。
その頃私は生きているのがおそろしかった。
そして決心した。私は決して子供を産まない。
私が耐えかねている「生」を他の誰かに与えることなど決してしない。

ーーーーーーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーーー


黒百合姉妹は知らない。
けど、16の頃が生きているのが怖かったのか。
私は、16の頃は感覚麻痺して生きてたから、怖くなかった。
小学4年で「今ここで死ねたら幸せ」だと思ったし、子供なんていらないとも思ったけど。

すごいな。恐怖の中、生きるなんて発狂してしまうわ。




と、ちらほらと怪しい話は出てきていて、よく生きてるなーとは思った。
学生なら、それでも生きていけるような気がした。
学ぶだけが仕事の彼らは物事を突き詰める事もまた仕事だと思うから。
そして、彼らには刺激が多くはないから。


学生を終えて、学ぶことが娯楽になって、刺激が多くなると、これらの思考は自分に突き刺さってくる。

自分で決めてしまった規律。
自分で決めてしまった醜美。
自分で決めてしまった善悪。
全てが、自分に突き刺さってくる。


そして彼女もそうだったのかなと思う。
いや。彼女は学生の頃からそうだったのだろう。そこに、外からの過剰な刺激……。

生きていられるの不思議。




この記事から、空気がガラリと変わった。

ーーーーーーーーー引用ここからーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2003/03/30(日) その1

否定的な評価を断言する人がいる。何人か、知っている。
彼ら(そう、それはたまたま皆男性なのだが)は、平気で断罪する。
まるで、彼にその権利があるかのように。否定することはとても簡単なことのように。
多分、彼らは気がついていないのだ。自分たちが振り回しているのが真剣だということに。多分、彼らは気がついていないのだ。にこにこと微笑む「女の子」が傷つきうるということに。

ーーーーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーーーーー



彼女は自分が傷ついている事をつらつらと、書き連ねたのだ。
それまでは、そんなに切々と他者に傷つけられた事を書いている文章はない。
私はこの記事で初めて『これは一人の女の子の日記」なのだと認識した。
それまで、危うい『生(存在)』の上に乗ってはいたけれど、別世界の話だった。
それが、私の中の女の子が引きずり出されて、『痛い!!』と叫び出した。

けれど次の記事で私は、彼女がその女の子を踏みつけているのを知った。

ーーーーーーーーーーーーー引用ここからーーーーーーーーーーーーーー

2003/03/30(日) その二

特定の人のせいなどではない。そんな単純な話ではない。もし、私が書いた言葉を自分の言葉だと思い、気分を害した方がいたら、どうか赦してください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーー


彼女は踏みつけられた女の子の手を取ることは出来ないのだ。
だってその『女の子』は彼女には存在しないものだから。
存在には根拠がいる。それが彼女の理論だ。

『自分の言葉だと思い、気分を害した人』は実在し手で触れることが出来るという根拠があるが、

『女の子』には触れることも語ることも出来ない。
ただ、彼女の『概念』でしかない。それは存在しない。


……いや。そう考えてしまう私がバカバカしいのかもしれない。

実際に苦情が来たのかもしれない。


でも、おそらく彼女は『女の子』が傷ついている事を知っていても、手を取ることは出来ないと思ってしまう。

根拠はない。それでも、そう思ってしまう。



その後は自殺失敗の話などが続く。
それまでの綺麗な世界は『本の引用』や『知人からのメールや手紙』に置き換わる。
必死に繋ぐ『生きている世界』との糸しか見えない。
それまでよりも一層、危うい。
それまでよりも一層、共鳴してしまう。
共感ではない。
共鳴に近い。女の子が泣くのだ。『許して』と泣くのだ。
許されている事を知らずに、ただ『許される事』だけを待っているのだ。



そして、彼女は休職する。
ひとつきいきてみると書かれていた。


『日記』のラストを私は最初から知っている。
自殺するラストを知っている。
何てことはない。

他愛もない。

つまらない。


彼女は『五月病』だっただけだ。
いろんな事をつらつらと書いてみたところで、結局、大人の世界に変わりはない。

「女の子」は大人になるには少しだけ早すぎた。
そして、彼女はそれに気が付けなかった。いや。気が付いていて『許せなかった』のだ。


何てつまらない。

彼女が読んだ膨大な本たちは、彼女に『生きる根拠』を与えなかった。

それだけのことだ。




けれど、そんな風に『現実』に引き寄せて考えてしまう事は、彼女の良しとするところだろうか?とも考える。

彼女は『この世界で綺麗なものを見つくして、向こう側に綺麗なものを探しに出かけた』……そんな『物語』で終わらせることが、彼女の良しとするところだろうか?



私にはわからない。




彼女の知人は彼女を『図書館』に例えていた。

膨大な量の本を読んだ彼女はまさしく『図書館』なのかもしれない。


けれど、私は『禁書』のような気がした。
立ち入り禁止の禁書の棚で、他の禁書達を読み、選ばれた知を求める人達とだけ語り合う。

一般の人達が触れることも見ることもない『禁書』

そこでなら、彼女はのびのびとどこまでも遠くまで行けたのではないだろうか。


そんな事を思った。









と、長々と書いちゃった。
ああー。ダメだ。頭、沸騰した。難しい話、きらーーい。

八本脚の蝶  著:二階堂 奥歯