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「誰が国語力を殺すのか」を読んで

2024/03/10

ルポ 誰が国語力を殺すのか
– 2022/7/27 石井 光太 (著)

ルポ 誰が国語力を殺すのか

「ルポ 誰が国語力を殺すのか 著:石井光太」を読んでみた。

興味深い話がたくさんあった。

序章の『ごんぎつね』が読めない小学生は、この本が話題になっていた時にも聞いた。
『ごんぎつね』の中の『近所の人が集まって、女性たちが何かを煮ている』というシーンで死体を煮ていると小学生たちが答えるというモノ。
色々、思うことはあるけど、『死体は雑菌だらけだから、消毒しないといけない。だから煮る』というのはある意味では合理的なんだよな……。倫理的に問題ありだとしても。現実的にも煮るより焼く方が早いし、簡単でもあるけど……この辺りは想像力が乏しくなるのはしょうがない。

もう一つ『一つの花』の例も出ていた。こちらは、おにぎりを強請る子供に渡すおにぎりがなくなって、父親が花を渡すというシーン。
『騒いだ罰として』『お金儲けのために。売ればお金になる』
これも、いろいろあるけど想像力の一旦と思えない事もない。ただし、認知の歪みはあると思う。

『子供の社会は大人の縮図』だとするなら、このような回答が子どもから出るという事は『大人がそのようなメッセージを常に発している』という事でもある。

でも、この本はそのような方向で書かれているものではない。『国語力』に焦点を合わせて書かれているので、『子供たちが登場人物の行間を読めなくなっている』という話で進んでいく。

そういう見方も一理あると思う。

序章では『国語力とは何か』とも書いてある。
文科省の定義では「考える力(論理的思考力)」「感じる力(情緒力)」「想像する力(想像力)」「表す力(語彙力)」の4つを指すとある。この本ではこれらの話題が何度も繰り返される。


第一章 誰が殺されているのか――格差と国語力
子供たちの今の状況が書かれている。……分かりやすく貧困や外国ルーツの子どもなど問題ありの学校のことも書かれている。
簡単に言えば、昔は無免許でバイクを乗り回してタバコを吸っていた分かりやすい不良が今は居なくなって、一見いい子だけど何も考えてない子が増えたという話。

分かりやすい事例が3つ載っていた。言葉のすれ違いで暴力沙汰になる例。未就学児ならよくあることと……みたいなことが高校生になっても起きるという話。
恋人同士の約束事で遅刻などをしたら一万円の罰金をするという例。罰金を払うために親の金を盗むようにまでなるけど、高校生たちは事の重大さが分かってないという話。
最後も交際してる女性との下着姿をクラスメイトに見せるという例。こちらも何がだめだったのかが理解できていない。

これらの例は家庭事情もあるので『現代だから』という理由だけではないけど、こういう家庭に未だに支援の手が入らない事が問題という事が書かれている。海外ならば、貧困家庭や問題がある家庭は支援の手が入る。

『日本には、子育ては親がそれぞれの考え方ですることであり、成功するのも失敗するのも親の責任といった風潮があります。(略)一方、欧米には子供は国の宝物なのだから、社会全体で育てていこうという空気があります』67p

国語力の低下は学校での『授業時間の削減』も理由の一つだけれど、未だに子供たちの為に家庭に介入する国の支援がない事も一因だという事が一章の言いたい事かなと思う。


第二章 学校が殺したのか――教育崩壊
一章が家庭の話についてだったけど、二章は学校についての話。『ゆとり』で授業時間数はどれだけ減って、何が変わって、社会はどう受け止めて、『脱ゆとり後』はどうなったのか……という話題。

私は『ゆとり前』に高校卒業してる世代だけど、1989年には『ゆとり路線』にはなってたとあるので、その路線に入っていた世代。土曜授業がなくなったのを知っている世代と言えばいいのだろうか。
そんな感じで、授業数が変わっていく様子も数字でちゃんと書かれてる。でも、『脱ゆとり』になっても、国語の授業はさほど増えず、プログラミングに英会話とやる事だけが増えていく現状も書かれている。
土曜があった時代と比べるのは無理だと思う。姪っ子の時間割を見ていても、その学年でそんなに授業なかった気がする……というものになってる。さらに言えば、授業確保のために掃除を毎日しなくなってる(二日に一度ぐらいになってた)。今の子たちの詰め込み怖いなと思う。

他にも教員の働き方や数や質なども書かれている。とにかく学校は『やる事が多すぎる』『教師たちもついていけない』『余裕が教師にもない』という話が書かれていた。
今、教師になっている方々、お疲れ様です。と思う。
姪っ子の担任も新任だったので潰れていったと聞いている。新任はサポートしてあげてほしい。私が小学校一二年の時も新任だったけど、学級崩壊して担任も生徒も地獄の2年間だった。でも、教師の数は足りてないらしい。国も教育にはお金をかけていないという事も指摘してる。

二章は主に学校と国、行政が上手く回っていない事が書かれていた。


第三章 ネットが悪いのか――SNS言語の侵略
インターネットでの話。ネットの中でも子供たちは自分と同じレベルの子たちと仲良くなるので、考え方も言葉づかいもより固定していく。という事が書かれていた。
これ、なんだかすごく分かると思ってしまう。
私は小説投稿サイトで投稿してる。でも、十代もしくは小・中学生ぐらいの子たちが投稿してるサイトと、大人が投稿しているサイトは分離してしまっている。私の時代だと『ケータイ小説』がそんな感じで、中・高学生ぐらいの子たちと大人が投稿するサイトが分離してたと思う。もちろん完全分離ではないし、ケータイ小説にも大人はいたと思う。
今も完全分離ではないけど、その傾向はある。それが『チャット小説』とも呼ばれるジャンル。今の子どもたちは『チャット小説』というほぼセリフのみ(時々、地の文がはいる)の小説を書く。
そして、それをお互いに褒め合う。または、気に入らないと貶し合う。
小中学生がメイン投稿者(だと思われる)のサイトをいくつか覗いたが、運営の注意事項が事細かに書かれてる。これはそれだけトラブルの多さを表しているのだと思う。さらにいえば、大人はそんなトラブルの場所には近づきたくないので、離れていくという悪循環も起きてそうではある。(でも、子供をカモにしたい大人にとってはいい餌場←マテ)

とにかく、ネットは同類で固まるので、語彙や使う言葉が変わったりはしない。さらにはネットで使う言葉を現実で……日常で使っていい言葉だと学習する。
姪っ子が『くさ(草)はえる』と言い出した時、ネットの言葉が日常の言葉に入り込むなんてあるんだ……と思ってしまった。インターネットと現実がものすごく近いというのは実感する。また、子供たちはネットで傷つけられたら、ネットで癒そうとするともあった。これはたぶん、子供に限らないような気もする。大人も気を付けよう。

今はインターネットの言葉と言われてるけど、おそらく私たちの時代は『テレビの言葉が現実に入り込んでいた』世代だと思う。だから、インターネットだけの問題ではなくて、『子供は違和感なく聞きなれた言葉を使う』ということなのだろうな。
問題は『親もその言葉に違和感を持たずに使い続ける』ので『注意されないまま子供は、人を傷つける言葉を使い続ける』

『私が言いたいのは、昔の人は分別があったということではない。長い年月をかけて培われてきた対話によるコミュニケーションの形式が、ほんの10~20年ほどの間にSNSのそれに取って代わられたことで、社会的な規制や教育が追い付かないまま、新しい特殊な言語環境にすべての子どもたちがさらされているという事実だ』152p

それにさらされているのは、子供たちだけではないと思う。大人も少しずつ「何が正しいのか」が分からなくなっているような気がする。情報過多の社会に追いつけないのはむしろ、大人のような気がする。ただ、それを言うと社会全体がおかしいよねという話に広がるので、この本では『子供の国語力』に絞ってるのだろうけど。
二章の学校の話と同じく、大人も同じ世界にいる。

ネットの危険性はこれからも語られるだろうし、今後ますますいろんな情報が出てきそう。

第四章 十九万人の不登校児を救え――フリースクールでの再生
不登校が増えている要因などは興味深かった。いろんな要因があるけどその中の一つ『社会で容認する空気が出来ている』からというもの。ただこれは「学校不信」も混ざってるのではないかなと個人的には思う。自分たちが子どもだった時の学校への不信感がそのまま、『学校行かなくていいよ』というものに変わってるような……私もそうだけど。
二章の学校についての話題もいいものは少なかった気がするけど、そういう不信感が『学校に行く意味はあるのか』みたいな疑問になって、「行かなくていいなら良いんじゃない?」という……他人の子どもだから言える事でもあるけど……感覚になるのかなと。

フリースクールでの取り組みは、『黙って待つ』が基本となってた。言葉を使えなくなってる状態なので、言葉が使えるようになるまで待つ。言葉が戻ってきたら「やりたいこと」が分かってきて、動き出す。そのために親にも今の子どもの状態を理解してもらうとあった。
でもこれ、子供によるともあったし、フリースクールも色々あるらしいので本に載ってるフリースクールが全てでもないらしい。

学校という場所しか選べないよりは、いろんな場所があった方がいいとは思う。でも、地域差もあるだろうし、難しい。

第五章 ゲーム世界から子供を奪還する――ネット依存からの脱却
ゲーム依存の子どもの話。あつもり(あつまれどうぶつの森)でも、ゲーム依存になるとあった。ゲーム依存になりやすいゲームなどはなくて、どんなゲームでも成りえる。RPGなどのイメージだったから意外だなと思った。
食事もとらなくなって体重が落ちて、トイレもペットボトルでして、命の危機があるようにまでなるという話。他の依存症と変わりないレベルで危険な姿が書かれてた。
でも、他の依存症と違って子供が陥りやすい。アルコール、たばこ、パチンコなどは大人になってからという制限があるけど、ゲームは親の金を使っていくらでもやり放題になりがち。
お金の使い過ぎで発覚して、親が病院に連れてくる形が多いらしい。

めちゃくちゃな生活を昼の生活に戻すところからとあった。私、昼夜逆転なので、人の事言えないな。


第六章 非行少年の心に色彩を与える――少年院の言語回復プログラム
これがメインなのかな……と思ってしまった。
少年院に入る子供たちはそもそも家庭環境が劣悪で、語彙が少ない。自分の気持ちを伝える言葉も、『なぜ、相手に苛立ったのか』を説明する言葉もないとあった。
『頭がグリグリってなったから、バアーってやって、警官にがッてされた』本に書いてある少年の犯行時の説明はこんな感じ。事件の話をしているのだけれど、さっぱりわからない。『悪いことをして父親に怒られると思った少年は女性を襲った。その後、警官に声をかけられた』という状況を少年が話すと、グリグリやバアーなどのオノマトペ(擬態語、擬声語)になるという話。

でもそれは逆に言えば、『状況を説明する必要がなかった』からであり、誰も『今あなたはどんな状況なのか』を知ろうとしなかった。もしくは、『勝手に決めつけられた』のかもしれない。だからこそ、非行(犯罪)に向かってしまうのだろうけど。

そんな子供たちにどうやって『自分の状態を周囲に伝える術を教えるか』というのがこの章の話だった。
『言葉のバブル』が面白いなと思った。喜怒哀楽それぞれに分けて『喜』ならば、『喜び』に関する言葉をいくつか書いて、どれがより喜びが大きい言葉かを大きいバブル(円)から順に入れていくというモノ。答えはない。それぞれ違っていい。

「歓喜」「狂喜乱舞」「はしゃぐ」……「天にも昇る」などの言葉が並んでいる。

喜びの言葉がいろいろあるのは見てるだけで楽しい。
少年院に入る子たちは感情の中でも苦しみに関する言葉が苦手とあった。言葉にしたら状況を理解してしまうから。状況を理解しても、苦しさから逃れられないなら、『知らないふり』をしたままでいたいという気持ちが働く。

これ、少年院に入らなくてもありそうだなと思う。この本には極端とも言えるような子供たちを取り上げてあるけど、ギリギリのところにいる子どもたちが増えているという話でもあるような気がする。凶悪な少年犯罪が起こることはなくても、『罪だと理解できないくらいの小さな……でも重大な事件』は今も、闇バイトが問題視されてるように存在している。


第七章 小学校はいかに子供を救うのか――国語力育成の最前線1
第八章 中学校はいかに子供を救うのか――国語力育成の最前線2

最後の二つの章は学校での取り組み……とはいえ、私立やお嬢様学校の話。お金を出せばいい教育を受けられるという身も蓋もない話になりそうなところを、公立でも取り入れられそうなことはあると紹介している。

二章の学校の教師も不足していて、手いっぱいな状態という話は消えてしまってるのだろうか……と思ってしまった。

どちらの章も『ディベート(討論会)』を重視している。要は自分の意見を持って、反論を予測してそれに対応する練習を常にしている。
あとは、図書室の活用を活発に出来るようにしている。お勧め本を教え合うようなシステム作りなど。
これは図書館に言っても感じる。今は14歳の挑戦なんかで、中学生が図書館でお勧め本のポップをかいてるのが置いてあったり、……そうでなくても小学生のお勧めポップなどもあるので、私の住む町は図書館が学校と連携してこういうのをしてるらしいなと思う。
姪っ子も毎週の読書の為に図書室で本を借りることになってるらしい……けど、姪っ子は本が嫌いなので借りるだけで読んではいないとも言っていた。こういう強制みたいなのはどうなのかなと思いつつ、それで習慣になる子供もいるなら、無駄ではないのか?と頭をひねってしまう。

私だったら、本嫌いになってそうだなとも思う。だって、図書室が嫌いだったから。時々、図書室で強制的に借りるイベント(?)みたいなのがあったけど、大嫌いだった。

本が好きになるのと、図書室+図書館で借りたいというのは別。返すのが面倒なので、借りたくないと思っていた。今の子たちなら、タブレットあるし電子書籍で借りれる学校もあるのかな。


最終章はコロナ禍の状況とヘレンケラーの話が載っていた。
言葉を知る事で、世界を知り、命を知り、暗闇の中に光が届くようになったという。


この本は子供たちのためのものだから『子供たちに機会を等しく提供するのは大人の責任』となっている。
でも、人権とは『国が国民の権利を保障すること』で、そのための教育の機会も国が保証しなければならない。日本の大人たちは『人権』すら教えられず、『大人の責任』とみんなの責任のようになってるのもどうなのかなと思う。
『政を監視するのは国民の義務』であり、『教育にお金をかけない政治から変えないとおかしい』ぐらいまで言えないのは……言わないのは何なのかなと思う。今の政治で『教育が変わる』という期待があるのか。政治の話にすると『嫌悪を抱く人がいるから避けた』のか。
でも最低限、『人権』の話を少し絡めてもいいと思う。ここまで、『教育がおかしい』という話をしてるんだから。

おかしいのは『教育』だけじゃなくて、『人権意識のない国民みんな』だよ。

国語力の話なのだから、『大人の責任です』みたいなぼんやりした話で終わるのをみると……いや。だからどうしろって? 教育委員会頑張れっていう話にしたいのか?それとも、国は頑張ってる偉いね。大人ももっと税金を納めて国に頑張ってもらおうねっていう話なのか←単なる皮肉。

それとも、もっと簡単にフリースクールなどに募金してという話?


Twitterを見ていたら、『海外では絵本を読み聞かせる理由というプリントを子育て中の人に配って、絵本を子供に読むメリットを親に伝えているという国がある』というモノが流れてきた。それだけじゃなく、『子育て中の困りごとはすぐに相談して、適切な支援が入る』とか『子供への伝え方、対応の仕方を一通り書いたものがある』みたいなのとか。

これ、日本だと全部『個性だから、しばらく様子を観ましょう』で終わる事でも、海外だと『こういう風にしてみましょう』という適切な対処の方法を一つずつ教えてくれるという話。
この辺りから子育て支援の方法が日本はかなり遅れてるので、たぶん『子供の国語力が』の前に、『子育てのために必要な知識は全て親に渡す』ことを国が整備してくれという話だと思う。子育て知識の集積の場所がない+周知していない事が最初の問題点のような気がする。

『子供の国語力』の前に『大人の国語力』がヤバい国が日本だと思う。


この本が無益というわけではないけど、『大人の責任』と結論付けてしまうと国の責任がどこかに消えるような気がしてモヤっとする。でも、そこまで書くような本でもないのでやはり『大人の責任で考えよう』が無難な着地点なのだろうか。

『ルポ 誰が国語力を殺すのか』