読み書き能力の効用 – 2023/11/13
リチャード・ホガート (著), 香内 三郎 (翻訳)
「読み書き能力の効能 著:リチャード・ホガート 訳:香内三郎」を読んでみた。
思った以上に読みづらく、面白かった。
最初はタイトルや紹介ページから『読み書きが広がった故の弊害』や『印刷物に対するあれこれ』かと思ってた。全然違った。労働階級の生活や文化についてが主な話。その中でも『読み書き=印刷物の普及に伴う変化』が主題という感じ。
最初は男女の結婚するまでの文化や価値観が書かれてる。
気になった部分抜き出しと感想。
目次
まえがき
第一部 より古い秩序
1 誰が「労働者階級」か?
A 接近方法の問題、ニ、三
B 一つの大ざっぱな定義
2 人間のいる風景―― 一つの舞台装置
A 話し言葉の伝統、抵抗と適応、おもての生活様式
B 「家よりいいところはない」
C 母親
D 父親
E 隣近所
3 「やつら」と「おれたち」
A 「やつら」・「自尊心」
B 「おれたち」
C 「我慢すること」、「生きること、他人を大目に見ること」
4 民衆の「本当の」世界
A 個人的で具体的なもの
B 原始的宗教
C 通俗大衆芸術からの例証
5 充実した豊かな生活
A じかに手のとどくもの、ただいま現在、陽気なこと。宿命とつきのよさ
B 「世界で一番大きな葉蘭」
C 大衆芸術からの例証
第二部 新しい態度に席をゆずる過程
6 行動の源泉をゆがめること
A まえおき
B 寛容と自由
C 「いまじゃ誰だってやってやるぜ」あるいは、「連中はみんなここにいるぜ」
D 現在に生きることと「進歩主義」
E 無関心主義、「人間化」と「断片化」
7 わた菓子の世界への誘い――新しい大衆芸術
A プロデューサーたち
B その過程の絵解き(1)週刊家庭雑誌
C その過程の絵解き(2)コマーシャル・ポピュラー・ソング
D これらの結果
8 より新しい大衆芸術――ぴかぴかの包みにつつまれた性
A ジューク・ボックス・ボーイズ
B 「ピリッとした」雑誌
C セックス・暴力小説群
9 ゆがめられた源泉――緊張のないスケプティシズムについてのノート
A スケプティシズムからシニシズムへ
B いくつかの寓意的な人間像
10 歪んだ源泉――根こぎにされ、不安にさいなまれる者へのノート
A 奨学生
B 教養の位置
11 結論
A バネのようにはね返る弾性
B 大衆文化における現在の諸傾向・概括
p86 3C 「我慢すること」、「生きること、他人を大目に見ること」
なんとも不思議なことに、どうしてかはわからないが、女の子の多くは、乙にすましたり、はっきり喧嘩したりすることもなく、土地の悪童連からのセックス・アプローチの横行する野獣の谷間を無事通り抜け、多分仕事場でのセックス談義の波をもくぐり、結婚しようとしている男の子のところへ、精神的にも肉体的にも全く無垢のまま辿りつくのだ。
(略)彼女らは箱入り娘風に保護されているわけではない。彼女らは十六歳からは、ほとんどの点で大人とみなされる。
―――感想―
これ、他の文化でもある事なのだけど男性側が『あの女と寝た』と言っただけでそれが事実になってしまって、女性側はその男と結婚するしかなくなる。かりに女性側が「結婚しないわよ」とか「それは嘘だ」と言ったところで、怒った男性側が「あの女はいろんな男とやりまくる女」という噂を立てればアウト。それを恐れて、言えない事が多い。
男たちはやり放題だったとも書いてあるので、明らかな男女差があるし、おそらくそういう背景からも『男性の言ったもの勝ち』な部分はあったのではないかと思う。
ホガートは優等生で労働者文化から若干外れていて、それが見えてなかったのかなと思った。
でも、こういうのはこの先の考察にはあまり関係がないので、気にしない。
―――
p148 6C 「いまじゃ誰だってやってやるぜ」あるいは、「連中はみんなここにいるぜ」
作者は自分の経験の前に立ちふさがって自分で直接話すことはできない、だから言葉の郡列のなかでその経験を再創造しようと試みている――だから読者は、書き手そのものと直接にというより、言葉を通して間接に、その複合性に応じて、書き手の経験を理解するように努めなければならないのだ。複合された――つまり、自ら探求せねばならず、それなりに読み手に一定の義務を負わせる――文学は、それゆえ、お払い箱になる。
―――感想―
文学がお払い箱に……はならなくても、このネット時代では『読む』人たちは少数派だと思う。
読み手の負荷は確かにその通り。
――
p161 6E 無関心主義、「人間化」と「断片化」
大衆娯楽が感度を過度に興奮させ、ついにはそれを鈍くし、究極的には感性自体を殺してしまうから、というものだ。
―――感想ー
今のインターネットの時代はこの頃とは、けた違いの娯楽が転がってるので、もっと進んでいそうだなと思う。
『インターネットポルノ中毒(未読)』という本に分かりやすく書いてあると見かけたので、機会があれば読んでみたい(でも、最寄りの図書館になかった。どうしようかな)
――
p178 7B その過程の絵解き(1)週刊家庭雑誌
私がいってきたように、全体としてその関心は、広く興味深いことにではなく、むしろ狭く人目を驚かすような、扇情的なものにある。さらに悪いことには、このセックスへの関心は大体頭と眼の中という、本物とは縁遠い代用品なのである。
――感想ー
AVの話なのか……と思ってしまった。ふぇらしてくれといってきた男がいたけど、あれってAV(アダルトビデオ)の影響だよね。頭の中が正しいと思ってる男たちが腐るほどいる。処女は血が出るもそうだけど……血が出たら、お前が下手という証拠だと理解できない男たち。(血が出なかったから無事という話でもないけど)
――
p192 7D これらの結果
寛容とは、基準がないことと同じにされ、ありふれてあいまいな、実際役にも立たない、ほとんど全くの呪文になってしまう。
―――感想―
寛容は言葉にすると「それくらい、いいじゃないか」という感覚。胸が強調されているイラストも『それくらいいいじゃないか』と思ってるから、問題視してる人たちの声が聞こえない。彼らの中にはそもそも『基準がない』から……ということなのかと思った。
――――
p194 7D これらの結果
こういう新聞で働いていた、いく人かのジャーナリストの証言は、より真面目な記事を犠牲にしても「派手にかっこよく」しなければという不断の圧力がかかることを述べ、まえ前から言われていたことが当たっていることを示している。
―――感想ー
「派手にかっこよく」……今の言葉で言うと、「人目を引く見出し」という事だろうな。ネット上の記事の見出しなんかがこれだよなと思う。私はもう、めんどくさいので考えない。
――
p202-203 8C セックス・暴力小説群
こうしたセックス本が駅の売店にいつもあるということは、汽車のなかの読書が、いかがわしい「雑誌屋」に「入るのを見られたくない」人びとにとって一種の解放装置になっているということと、かれらはこの種の本をほとんど家へは持ち帰らないだろう、ということを推測させる。しかし境界線はひじょうに速く移動するので、この五、六年のあいだに普通の多くの駅でもこの種のペイパー・バックを置くようになってきている。つまり、それらはいささかも人目をしのんで読むものではなくなってきているのだ。
―――感想ー
人目のある所に『セックス本』が出てくるって、今のネット上のエロ広告と同じでは……と思う。これも寛容のなせる業。セックスは「見られたくない」ものではなくて、「見せていいもの」というおかしな感覚になってることに大半の人が気が付かない……という話。
―――
p263-264 11B 大衆文化における現在の諸傾向・概括
より詰まらない大衆娯楽に私が反対する最大の理由は、それが読者を「高級」にさせないからではなく、それが知的な性向をもっていない人びとがかれらなりの道をとおって賢くなるのを邪魔するからなのだ。(略)「高級」になり損ねているからではなく、本当に具体的でも、人間的でもないからである。
――感想ー
大衆娯楽がない方が「賢くなる」と信じてるのいいなと思う。大衆娯楽は「具体的でも人間的でもない」というのも分かる。
大衆娯楽の大半は「雰囲気」を押し出して、読者に「感動」を与えてるだけ。世界観もキャラも背景も雰囲気に合っていれば矛盾していいので、具体的や人間的なものからは外れていく。
―――
p265 11B 大衆文化における現在の諸傾向・概括
そこでは進歩は物質的持ち物を増やすこととして思い浮かべられ、平等は悪いほうへの倫理標準化、自由は果てしのない無責任な快楽追及の土台とし描かれるような世界の見方を、こうした大衆娯楽はつくりあげやすい。
――感想ー
うわぁお。すごく分かりやすい言葉にしてある。まさしくそれだと思う。私が欲しい言葉がそこままここにあると思ってしまった。
特に「表現の自由」と言ってる人たちの自由に首を傾げてたけど、あれは『無責任な快楽追及の土台』だとするなら納得できる。
――
p269 11B 大衆文化における現在の諸傾向・概括
中央集中化の過程と技術的発展とが続いているさなかで、なにか実質的に意味のあることとして「自由」を保持してゆくためには、どうすればよいのか、という問題、である。これは格別に複雑な挑戦といってもよい。なぜなら、もし実質的に内面の自由がなくなったとしても、巨大な、新しい「階級のない」階級には、そのことがわからないだろうから。そのメンバーはそうなっても相変わらず自分たちは自由だと考えるだろうし、おまえたちは自由なんだ、と語られるに決まっているから。
――感想ー
これ、ラストの文章なのだけど。
希望的なことが書かれてる(『複雑な挑戦』の部分)……と一瞬思ったのに、最後の文は要するに『自由がなくなっても分かんねーだろ。お前ら馬鹿だから(←言い過ぎ)』という意味だよね。
私の読み方が間違ってるだろうか。
でも『表現の自由』の使い方を見ると、なんかこのラストの文章には頷くことしか出来ない。
一応書いておくと、【「階級のない」階級】は労働者階級にいた人たちも読み書きができるようになって、その階級から抜け出す人たちも出てきたし、他の階級もこの膨大な量の書籍や新聞に接していて、階級の区切りがなくなって来たのではないかと言う考察から【階級のない』階級】は大衆娯楽を消費する人たちというような意味合い。(だと、私は思ってる)
文化をつらつら書いてある第一部は興味が持てなくて、選んだ本を間違えたかな……と思ったけど、最後に近づくほど『今のインターネットの世界も変わらない』という部分が多くなって面白かった。