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「たった独りのための小説教室」を読んで

2024/03/10

たった独りのための小説教室
– 2023/9/26 花村 萬月 (著)

たった独りのための小説教室

「たった独りのための小説教室 著:花村 萬月」を読んでみた。

小説教室……の名の通り、『小説教室』だと思って読んだら痛い目をみる。
このタイトルにある『たった独りのための』というのは、範囲が狭い。

・花村萬月著書のファン
・感情で書かれている文章も難なく読める。
・過去の自慢や他人への嫌悪の話が聞ける。

この辺りに当てはまるならば、何かを得られるかもしれない。
さて、私はと言えば、別に著者のファンではない。技術書と思って手にしてしまったので、感情論で唖然とした。自慢や嫌悪は聞くに堪えない。
『たった独り』の点に一切合致しなかったのが私だ。

この本にある『能力と才能の使い方』というのは、『自分だけはバカではない。才能があると思う事』……に尽きる気がする。残念ながら、私はバカだし、才能なんてないから小説教室なんていう本を手に取ってしまった。

さらに付け加えるなら
『小説投稿サイトでPV(ページビュー)に一喜一憂している』という小説書きさんたちは絶対に手にしてはいけない。PVで一喜一憂してる人たちの足しになる事は一切書かれていないどころか、嫌悪の言葉がまっすぐ向けられている。仮にこの『嫌悪』に気が付かないならば、それはそれで大物だと思う。この本から何かを得られるかもしれない。


簡単に言えば、技術についてのあれこれよりも、『エッセイ』と思って読むのが正しい。著者の好みがあれこれと綴られている。部分的には参考になる点もあるのだが、書き方が『万人に教える』ではなくて、『俺の感覚(センス)にあう奴だけが分かればいい』というものなので、そりゃ無理な話だなと思う。

この人だけに限らないと思うけど、職人・芸術家の大半はそもそも『人に教える技術』は持ち合わせていない。この著者もその部類の人間で、この本も『人に教えるため』には書かれていない。だからこそ、『(俺の事が分かる)たった独りのあなたのための小説教室』というタイトルなのだなと思った。まず、著者の理解から始めないと読み解けないという……クソめんどくさい本だった。

とはいえ、読んだのでなんとか著者の理解をしつつ、読み解ける分だけでも読んでやるという気持ちで読み進めた。

目次ごとの感想と思ったけど、長いので気になったところだけ。
第1講 小説を書こう
小説を書く事が好きな著者の経歴が書かれてる。
実は、あとがきから読んでしまったので、『自分の事を知ってほしい?申し訳ありません。誰も貴方の事など知りたくありません』という文章の後にこの自分の経歴つらつらは……何ってんだ?と思ってしまった。ネット上で教えていたら変な輩に絡まれて迷惑したので、本で書くとあったけど、それこそ、どうでもいい。
素直に『自分は万人に小説の書き方を教える能力はなかった。だから、自分をわかってくれる人間にだけ教えたい』と書けばいいところを、『素質とセンスあるあなたに教えたい』と言い出すの……ごめん。無理。と思ってしまう。
『小説を書く能力』と『小説を書く事を教える能力』は別。
でも、本の書き方は『小説的』だなとは思う。自分の恥は隠して、綺麗に包む。だからと言って、著者本人がその嘘を信じてたらダメだろとも思うけど。

第2講 日記を書く
『私は、いまだかつて小説を書いたことのない、けれど才能豊かでセンスある貴方を想定しています。』
何だ。この処女信仰っぽい気持ち悪い文章は……と思ってしまう。しかも、すでに新人賞などに応募してる人は『手垢がついている』らしい。マジでキモイな。
今どき小学生だって、公募に応募してたりする。才能のあるなしではなくて『情報が小学生にも届く』環境がそろっているから。
『新人賞の傾向と対策は役に立たない』と言いたいがために、他者を貶める言葉を書き連ねる意味がわからない。
最後にひと月ほど、『(百文字程度の)虚構日記』を書こうとある。これは『連続した嘘の書き方』の練習らしい。

……昔、そういうブログが沢山あったなと思った。
ブログの中でも『(本当は社会人だけど)女子学生ブログ』を書いてる人がいて、これがすごかった。本当に学生生活があれこれ書かれていたから。ほぼ毎日記事が更新されて全部嘘だけど、嘘っぽく見えない。真似してみようと意気込んだけど、そもそも私には学生生活のストックがほぼゼロで無理だった。

第3講 偶然に頼らない
虚構の中には偶然が入り込む余地がないという話。
これは私もそう思う。よく練られた物語は『偶然に見える出来事』すら計算して配置されている。

昔、とある作品で母親が死んだけど、遺品がない……という状況で作家さんは困ったらしくて、作品を見直して『母親が死の間際にうっかり落としたもの』を遺品に出来ると気が付いて慌ててそれを入れた。というのを聞いてから、この物語では『母親の死』も『遺品』も最初から配置されてない事に驚いたけど、それをうまく形にしてしまえている作家さんの力にも驚いた。
だから、全て計算ずくでなくても、『上手く形に出来る作家』はいる。とは思うけど、みんながそれを真似するのは……難しいのだろうなと。

でも、最終的には読者をだますだけの力があれば誰も文句は言えない。という身も蓋もない事を考える。

第4講 小説にオチはいらない
これも同じ。詰め込み過ぎに気を付けて、オチをわざと削ってみてもいい。
ただ、これもケースバイケースになる可能性もありそうだな……とは思う。頭の隅には置いてみる。

第五講 セックスを書いてみる
この本の中で一番興味を持ったけど一番幻滅した。
『物理的に侵入し侵入され、侵略し、侵略される描写を徹底しろ』とあるけど、それがセックスしかないというの気持ち悪い。
殺人でも食事でも病気でも同じ事が起きているし、出産なんて『侵入』の最たるものではないのか。胎児は初めて嬰児としてこの世界に『侵入』してくる。その描写を徹底的に書けでもいい。
『冷徹に描けば女は解剖台で足を広げたカエル』と書いて、『私は男なので自身の滑稽さに関しては頬被りしておきます』って何?……恥ずかしげもなくセックスが書けるなら、自分の滑稽さも書けるだろう。自分の事は書けないのかという気持ちで読んでしまった。

若い子に『セックスを書いてみろ、恥ずかしくてかけないだろ』みたいな、下卑た笑いが見え隠れして本当に気持ち悪い。普通に考えて、『セックスを書いてみろ』はセクハラだからな。セクハラにならないように目的と理由を明示するのは分かるけど、尚更、セックスである必要性がない。
『肉体をそのまま書くことはない。比喩の連続』みたいなことも書いてあったけど……だったら、リンゴをリンゴという単語を使わずに表すなどでもいいわけで。セックスにこだわる理由はないのに、数話にわたって『書いたか?書けないだろ?』みたいな確認してるのも気持ち悪い。


さて、ここまで読んで疲れたのと飽きたのでこの先は、無になって読んだ。
なので、気になった講だけ感想を書く。

第10講 描写と説明1
この後も描写と説明についていくつか講がある。
『おっす。おら、×××。今、小学三年生』というような自己紹介文は最初に持ってくるなというのはわかった。私も、これ系の文章は児童書や小学生向け作品ではないかぎり……閉じる。プリキュアが、毎回この出だしなので小学生には分かりやすい文章。
例文はこんな例ではない。この例文は私がざっくり理解した範囲で書いている。

説明は根拠・理由。
描写は状態や情景を現実世界の事象かのように表す事。
コップは引力によって床に落ちて割れた。というのが説明。
コップは動揺した人物の手から離れて割れた。というのが描写。
ざっくり書きすぎてるけど、その動揺シーンを書くと描写になる。という事が書かれてた。
世界説明が分かりやすい気がする。私もうっかり、つらつらと世界説明だけ書いてしまって、この部分さっくり削除だなと思ったことがある。説明だけされても面白くないし、世界説明に関係するシーンを入れないと意味がない。

第17講 比喩について1
これも同じくいくつか講がある。
でも、最終的に『比喩に逃げない』となっていて笑ってしまった。比喩なんて書かない方がいいよという結論らしいけど、これは人それぞれでいい気がする。
『書くな』とは書かれていない。不必要な比喩が多いだけ。

第23講 地図を書く
第24講 自分だけの年表をつくる
この二つが面白かった。私がしてる事だから。
今書いている物語、頭の中だけだと上手く書けなくなったので、絵(地図・建物内見取り図)として吐き出した。年表はまだだけど、書こうと思ってる。
物語はある程度のボリュームになると、地図と年表が必要になる。
でも、こういうのは、書いていれば分かる。

ただキャラの歩数で脳内地図を完成させてる著者はすごいと思う。
身長×0.45が歩幅。という計算が出来ても、建物大きさから何歩でその建物の前を通り過ぎるかまで脳内で描き切ってる能力……私にはない。
空間認識力があるから出来るとか、そういう話になるのだろうか。家具を買う時にも発揮されていたりするのだろうか?

本には書いてないけど、登場人物の造形も……顔だけでもあった方がいいと思う。私は瞳と髪の色を文字として書き出してたけど、髪形が全くイメージで来ていなくて絵で描いたらやっとキャラが出来上がった感じがした。さらに身長差もあるならキャラ一覧で吐き出してみるのもいい。
……やる事は腐るほどある。文字情報は最低限しかでてこないので、絵として一枚出しておくの大切。脳内の限界を嫌でも知る。

第25講 リズムについて1
リズムの話。心地よいリズムで書くという話で2では20文字×20文字のエディタで書いているという話があった。
原稿用紙に合わせてあるのだと。……それ、真似してみようと思った。20文字の区切り文章を見てたら、心地よく感じたから。

第34講 夢の効用
夢をコントロールするという話。私も一時期、夢の中も作品だったな。脳内が作品の事で溢れていた。おかげで、夢で見た話をそのまま文字に吐き出すという事が出来た。
でも、眠った気がしなかったので、あれは単に興奮状態で『眠れてない』だけだったのかもしれない。

時々、夢に見たことを書いている。でも、夢なのでめちゃくちゃ。そのめちゃくちゃなまま書ける時もあれば、忘れてしまって『オチ』をつけてしまう時もある。夢のほとんどはオチはない。『よくわからない状態』で終わる。夢だから。


この講は著者も話半分で聞いてほしいと書いてあるので、鵜呑みにしないでもいいのだろうけど。私は、夢を書くのも楽しいので、なるべく、見た夢は書きたい。けど、最近は夢は見ない。見たい夢を見ようとしてる時は『眠った感じがしない』ので、私はそれはしたくないなと思う。


ところどころに出てくる「センスのない人には分からない」「あなたには言っていない」という文章は、見なかったことにして頑張って読み進めた。

売れるのは『エンタメ作品』で『純文学』は売れない。
でも、『純文学』は尊敬を集めることができる。
今の時代、作品は消費されていくもので夏目漱石には誰もなれない。
そして、嫉妬は醜い。受賞者には嫉妬の目が向けられ、それで潰れる人もいる。
という事も書かれている。

金が欲しいならエンタメ。
尊敬を得たいなら純文学。

どちらもは無理。と書きながら、著者はどちらも書いているともある。でも、『だから俺はどちらの事も馬鹿にしてないし、両方の話が言えるんだぞ』とわざわざ誇示してるのも……それ、自信のなさでしょ。可哀そうになってきてしまうから、自信あるなら不必要な誇示はしない方がいい。

他にも著者はネットの『他人の作品を勝手に批評する中学生』が嫌いらしい。
いや。好きかって言っていいし、中学生だろうが老人だろうが『作品の批評(批判・意見)』は自由だと思う。
でも、『エゴサーチはしない』というのは正しいと思う。少し有名になっただけでも裏で何言われてるかわかんないんだから、わざわざ茨の藪に飛び込む必要はない。

そして、ネットでの批評は単に目立ってるだけで大半がひっそりと本を閉じて二度と読まないんだよ。そういう人たちの方が多いと思うんだけどな。わざわざ批評めいたことを言ってる人はなんだかんだと読んでくれたり、気になってくれた人ではある。
作者にとって大迷惑であっても、わざわざ迷惑ファンレターとして送らない限り『勝手に言い合っている場所=インターネット』ぐらいの認識でいい。
文句を書き連ねるくらいなら、小説教室として『勝手な事を他人は言うものだからスルースキルは必須である』という才能ある人たちへの警告を書いた方がマシ。というか、それが『インターネットのマナー』の一つだと思う。……エゴサしたくなる気持ちも分かるけど。

そして、「ネットで勝手な批評をしてるのは中学生だから」と言ってる著者もまた『本の中で好き勝手言っている他人』になり果てているだけ。同じ舞台に降りない方がいい。「そういう人たちもいる」で切り捨てるくらいでいいと思う。(もちろん、こんな事を書いている私は「好き勝手な事を言っている人」です)

他にも、新人に『新婚のお祝いにスウイートルームの半額券を渡したけど、奥さんからはいい顔をされなかった』というエピソードがあったけど。
それはね、金がないからだよ。半額券なんてけち臭い事せずに、全額出せばよかったのにと思った。半額券を渡して『俺はいい先輩だ』みたいなエピソードって恥ずかしくないのだろうか?
贅沢をした方がいいって、それも昭和の価値観だなと思ってしまう。バブル世代は金を使うことを贅沢と言う。……いや。それも贅沢だし、できる範囲でならしたほうがいいけど、他にも経験したり知った方がいいことはたくさんあると思う。


私は『たった独りのための小説教室』を読んで、著者の他の作品を読みたいとは思わなかった。紹介はいくつか書いてあったけど、食指は動かない。何よりこの本が私に『合わない』

『小説教室』というタイトルは誤解を生むと思うけど、それが本の売り方なんだよな。
そうでもしないと、売れない。『俺の書き方のうんちく』ではだれも読まない。でも、内容は……そんな感じ。


他にも著者は視覚優位の感覚の持ち主っぽいので、『書いた時の原稿用紙の美しさ。パッと全体を眺めた時の美しさ』や『読めなくても漢字の形を楽しむ』という感覚がある人なので、その辺りは合う人しか無理だろうなと思う。

視覚、聴覚、体感と優位な感覚は人によって違うので、わかんないよと思う人はその感覚を大切にした方がいい。『人によって違う』というものがこの本の中ではほぼ排除されていて『俺のやり方』が書かれてる。

我こそは『花村萬月先生のたった独りになれる』と思う人は、この本を読んでみると良いのかもしれない。


私は、図書館でよかったと思ってこれを返却するのです。

『たった独りのための小説教室』