ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)
– 2019/7/12 宮口 幸治 (著)
図書館で借りた「ケーキの切れない非行少年たち」を読んでみた。
人はいつから『反省』が出来るのだろう。私は、自分の行いが間違っていて、修正をするというのは『学習』による部分が大きいと思っている。
けど、その『学習』に至る前に、能力的に足りないという事がこの本ではこれでもかと書かれている。
私たちは『学習』の結果、『反省』をする。
けど、この『反省』の形は外から強要出来てしまう。反省の能力がなくても、『求められる形に行動する』という能力があれば結果的に『反省』しているという形を見せることはできる。
【反省だけなら猿でもできる】と言う言葉があるけれども、これも『反省ポーズ』をするだけならばサルでもできると言う意味だ。
人間ならば、それが『今後の行動に役立つ』と言う事まで含めて反省なのだと思う。
能力が足りない人間は、『反省ポーズ』が出来ても、反省が出来ない。
だから繰り返す。
ただ、読みながらその能力の形成は、何歳ぐらいまでにできるのだろうかと思ってしまった。
個体差も考慮すると、どこまで成長の誤差範囲内と考えたらいいのだろうか。
非行少年に共通する特徴
:認知機能の弱さ
:感情統制の弱さ
:融通の利かなさ
:不適切な自己評価
:対人スキルの乏しさ
+身体的不器用さ
認知機能の弱さとは、想像力の欠如。
人を殴って怪我をさせたら、警察が来ると考えられないようなことらしい。
感情統制の弱さは、怒りに任せて突発的に人を殴ると言うような事。
融通の利かなさ……ぐらいまで読んで、わが身を振り返ってしまった。
私にもある。融通の利かなさ。分かっていても……と思ってしまう部分。と思ったが、たぶん、それではなくて、もっと強い拘りなのかもしれない。
不適切な自己評価……この辺りになると、適切に自己を評価するのは難しいという話になっている。不良少年に限らず、大半の人は不適切な自己評価を持っている。
対人スキルの乏しさ……これは、学習による産物ではないのだろうか。
嫌な事を断れない・助けを求める事が出来ないと書いてあるけれども、そんな人達はたくさんいそうだなと思った。
同調圧力の賜物という考えは、ここには入って来ないのだろうか。個人の意見を尊重するという教育と子供時代があっても、やはり『断れない』『助けを求められない』のならば、それは能力不足なのかもしれない。
身体的不器用さは、力加減が上手く出来ない人たちと言う事らしい。
書いてある事は分かるけれども、非行少年でなくてもその能力は持ってないと思ってしまう点がモヤッとする。
能力の問題なのか、環境の問題なのか。考えてしまう。
元々は、精神病の医者でそこに連れてこられる子たちは、比較的裕福……だと書かれていたけれども、まさしくそれ。精神科の扉を叩ける親はそれなりの教養と知識と金がある。あと、子供への愛。
対して、少年院などに行く子供達には、そのどれもがないと言ってもいいかもしれない。下手をすれば、親が暴力を推奨するという劣悪環境な場合もある。
能力不足+環境不足が合わさって、非行へと向かう。とはいえ大半は、ひきこもりや最底辺の暮らしで何とか命を繋ぐ……というようなものだろうとも書かれていた。
最後の方に、能力が足りない子たちへのアプローチとしてコグトレが載っていた。
なんというか、宣伝に見えてしまった。いや。宣伝なのだろう。ちょっと調べたら、コグトレの本に「ケーキの切れないに載っていた」という宣伝文句付のものを見つけた。
コグトレ、気になったけれども、年齢や集中力色々考えると使うのは難しい。
読んでみて思うのは、救いがないなと言う事。
極論を言ってしまえば、『ケーキが切れなくても生きていていい』けど、現状の社会は『それでは生きていけない』
辛いのは能力がない事ではなくて、能力がなくても生きていいよと言ってくれる社会がない事。だから、コグトレなんだろうなぁ。
社会としては個人の能力が伸びるのは歓迎かもしれないし、それで『生きやすい』と思えるなら、それでもいいのだろうけど。
いろいろと、モヤッとする。