『手紙』を読んでみた。
これは図書館で借りたものではなくて、読んでみたくて古本で買ってみた。
とあるブログで読んだ感想があったので、自分で読んでみたくなった。
現実は残酷だという事をまざまざと見せつけてくれる物語だなと思った。
そして、その残酷さを持ってるのが『普通の人間』なのだと示してくれる。
読後感は『欝々とした闇』しかない。
そんな物語だった。
※以下ネタバレ※
『強盗殺人犯の弟』というレッテルを張られた主人公と、それに対する『普通の人』の『普通の差別』を書いてある。
というのを知って読んでみたいと思った。
ニュースの中で『被害者の家族』は容易に想像がつくし、時には『加害者の家族』への執拗なマスコミ取材も目にする。
けれど、『その後』というのはあまり想像できなかったし、情報もあまり入って来ない。
いくつか入ってくるものと言えば、『それでも家族を信じて待っている』みたいな、家族神話に基づいたお涙頂戴なドキュメントくらいだ。
物語の主人公は『強盗殺人犯の弟』でありながら、大学に通い就職し、結婚して子供を持つまでを書いてある。
そして、子供を持って初めて『これではダメだ』と『強盗殺人犯の弟』であることを隠そうとする。
こう書くと、なんだか陳腐だ。
けれども、事あるごとに『差別』の問題を突きつけられる。
仕事に就くのも『差別』され、結婚も『差別』で流れる。音楽の夢も『差別』が立ちはだかる。
このような差別は、私には経験が無い。
けれど、差別する側ではなくて、差別される方に感覚が引き寄せられる。
共感するというような感じではない。
何とも言えない屈辱。
自分ではどうすることも出来ない無力感。
世界が巨大な壁で仕切られているような疎外感。
それらは私の中に、『経験』として蓄積されている。
主人公は「どうして俺がこんな目に合うんだ」という苛立ちを持っているけれど、私のそれは「世界はこんなものだ」という諦めだ。
だから、決して主人公に共感は出来ない。
同時に周りの人間の「差別する側」にも、覚えがある。
こちらも共感ではない。それは大抵『罪悪感』すらなく、行われる。
そしておそらく私も『罪悪感』なく、行っているのだろう。
気が付くことが出来ればまだ『マシ』で、気が付くことすらできない『差別』が蔓延している。
読み進めるうちに『欝々した気分』は増していく。
『差別』は当然のようにやってきて、主人公を飲み込んでいく。
俯瞰も共感も出来ずに、変な距離感で読んでしまった。
特に社長さんのこのセリフ
『自分たちのすべてをさらけだして、その上で周りから受け入れてもらうと思っているわけだろう? 仮にそれで無事に人と人との付き合いが生じたとしよう。心理的に負担が大きいのはどちらだと思うかね』
社長さんは『差別は当然』という価値観の持ち主で、その延長でこのセリフがある。
この人は病気になったり、怪我をした時も同じ言葉をかけられたいのかなと思った。
「いや。『犯罪者の家族に』だからこの言葉は当然だ」というのならば、それこそがアウシュビッツが出来てしまった『普通の人の思考』なんだろうなと思う。
『犯罪者の家族』はどこまで通用する?何代さかのぼる?戦争中の殺人は?
それが通用するのならばまず真っ先に『犯罪者の不妊手術』を推奨するべきだ。とすら思う。
差別されるべき人間を増やすのが妥当だとは思えない。
が、そんな話は一切出てこない。
あくまでも話は『差別は当然』の一点で進んでいく。最後まで『差別は当然』の世界で、主人公は声を失って話が終わる。
救いもなければ、光もない。
けれど、『自殺』という結果ではなくて、『声を失う』というのは何となく納得してしまう。
差別は最終的に『差別される側の声を奪う』
声を奪うから、誰も差別に気が付けない……という部分もあるのではないかなと思う。
今、セクハラの告発などが盛んに行われている(ように見える)
けれど、『声を上げる』というのは大切な一歩だと思う。
で……この本を読んでいる途中で『加害者家族の会(だったかな?)』
犯罪加害者の家族が集まるようなものが出来たらしい……というニュースを見た。
いい事だなと思う。
そうやって小さな声が集まって、もっとよりよい社会になっていくのかなと期待したいと思った。
物語は欝々だったけど、ニュースを見てちょっとほっこりした。
……作品の感想からずれて行ってしまった。