砂の妖精 (福音館古典童話シリーズ 29) 単行本 – 1991/10/24
イーディス・ネズビット (著), ハロルド・R. ミラー (イラスト),
Edith Nesbit (原名), 石井 桃子 (翻訳)
「砂の妖精 作:E・ネズビット 訳:石井桃子 画:H・R・ミラー」を読んでみた。
百年前に亡くなった作家さん。
そして、さすがに百年たつと……価値観が古い。でも物語はすごく面白い。
ユーモアと言うのだろうか。何というか、所々に差し込まれる『くすっと笑える』ポイントもいいなと思う。いくつかの点は笑えない古い価値観だけど、大半は今も笑える。
物語は『4人の子どもたちが、願いを叶えてくれる砂の妖精を掘り起こした』ことで始まる。願いを言う子供たちと、願いを叶える妖精。でも、その願い事は常に『困ったこと』を引き起こす。
普通は願いが叶えられたら、めでたしめでたし、またはそこから新たな冒険になりそうなのに、この物語は『願いを叶えて困った事が起こる』が何度も繰り返される。
それも、しつこいほどに……しつこいけど、『どうなるんだろう?』という引きが強くてぐいぐい読まされる。
最初の願い事は「花のように美しくなりたい」
願いは叶えられたけど、誰も4人の子どもたちのことがわからなくて、家に入れなくなってしまう。
二つ目は「金貨の山」
これも、現在使われているお金ではなかったために「使えない」と言われ、果ては盗人の嫌疑までかけられるという目にあう。
三つ目は「ぼうやをほしがるひとがいたらいい」
ぼうやは4人の子たちの弟で、まだ赤ちゃんで兄姉の邪魔ばかりをする。そんな子要らないという意味の願いはジプシーたちの集団に囲まれる事態を引き起こす。
四つ目は「翼が欲しい」
これも叶えられて、塔の上から降りられなくなるという事態になる。
五つ目「お城で敵に囲まれたい」
このお願い事は家がお城になったけれど、4人以外にはお城は見えずいつもの家の中という状態。おかげで、用意された食事が4人には見えないという困ったことになる。
六つ目「大男になる」
このお願い事ではその姿を利用して、お金を稼ぐことに成功する。
七つ目「ぼうやを大人にして」
このお願い事で、ぼうやは大人になってしまって女性を口説いたり、一人で行動しようとしたりしてしまう。
八つ目「インディアンがいてくれたらいい」
このお願い事では、インディアンが家にやってきてしまって対決する羽目になる。こけおどしは効かず、もう少しで頭の皮を剝がれそうになった時、妖精がインディアンの『家に帰りたい』という願いを聞いて助けてくれる。
九つ目「ママに宝石を渡したい」
これが最後のお願い。盗んだ宝石がママの部屋で見つかる事態になり、全てのお願い事の取り消しと「二度と願い事をしない」という願いを叶えてもらう。
最後のお願いの時には妖精の「妖精の事を他の人に話さない」というお願いもする。妖精は『人のお願い』は叶えられても、自分のお願いは叶えられないので、『人に願ってもらう必要』がある。
面倒なルールがあるのがこの作家さんの作品なのかなと思う。魔法が万能ではない。
そして、所々入る差別表現。当時の感覚では当たり前とはいえ、今の価値観だとこの本は子供にお勧めは難しいだろうなと思う。
気になった部分。
『将来、いい奥さんになるつもりのアンシア』32p
たぶん、今これは難しいなと思う。奥さんは職業じゃないし、仕事ではないから。現代風に言うなら「素敵な家族を作る」になるのかな。
『おまけに、女の子までひきずりこんでなあ。おい、おめえたち、おとなしく警察へいくなら、よし。女の子は帰してやるが、どうだ。』82p
どちらも悪いことをしているのに、性別で対応が違う。現代なら『警察へ行こう』か『全員帰してやる』のどちらか。
『ぼくたちののぞみをかなえてくれられるんなら』96p
これは別に悪いとかではないけど、回りくどいなと思ってしまった。「ぼくたちの のぞみをかなえられるのなら」で充分では?
「かなえる」と「くれる」と「られる」と「なら」が混ざり合うとこうなるのかな。児童書だから全部ひらがなという弊害もある。音読したら、舌を噛みそう。
『ご飯だって? ぼく、あのひとたちのご飯なんて、さわらないよ。のどにつかえちゃわぁ』121p
これはジプシーたちがご飯を分けてあげるというシーン。現代だと『見知らぬ他人から食事は貰わないのは当たり前』という感覚の人もいるかもしれないけど、この時代のジプシーなので、『見知らぬ他人からの食事を拒否』ではなくて『卑しくて、怪しい人間(=ジプシー)からの食事は欲しくない』という意味だろうな。直球の差別。
152pの挿絵。
お百姓が尻もちをつく絵という説明があるけど、百姓の姿が貴族にしか見えない。これは……どういう事なのかな。挿絵を描く人も上流だから百姓の姿に興味がなくて下級貴族程度の感覚で書いてあるのか。それとも、百姓と訳されてるけど農園管理をしてる人という意味合いで労働をしている人という意味ではなかったのだろうか。うーん。労働者の服に見えないけど、この時代の労働者はこの服で労働をしてたのか。悩む。
『きたならしいようすの女の子をよぶと、その子に店番をするようにいいつけてから、アンシアにむかっていいました』251p
これは祭りに来ていた興行師(と思われる)人に声をかけて、話を聞いてもらうことが決まったというシーン。『きたならしいようすの女の子』というのも、興行師……おそらくサーカスの子。彼らも差別対象で4人の子どもたちは快く思っていないという意味も「きたならしい」に含まれてるような気がする。
『ひとの頭の皮をはいで歩いているんじゃないかしら』298p
これはインディアンについての話。この後に『インディアンが頭の皮をはぐ(実際は頭の飾りをインディアンたちは頭の皮だと思った)シーン』も書かれている。
インディアンの部分は差別そのままが書かれていて、現代では問題大ありになりそうだなと思う。
最後の章でも『猟場の番人が盗人ではないか』という嫌疑がかけられてるけど、これも労働者階級への差別的感情も混ざっているのかな。
全体として面白くても、当たり前に入り込む差別に脱力してしまう。もちろん、当時の人はそれが当たり前で差別とも思っていなかったというのもあるけど、このまま子供の前に置いてしまうと色々間違った知識を得てしまう。特にインディアンのシーンは大問題なわけで。
同じようなテーマとネタで問題部分を書き直した新たな物語が欲しい。
『ものごとはまず、考えてからしゃべれと、わしは忠告したいんじゃ』142p
おそらくこのための、何度も繰り返す願い事と困った事態なのだなと思う。テーマもこれかなと。
『むかしの人間は、毎日つかう地道なものしかほしがらなかったということさ。(略)こんにちの人間は、理想が高くなりすぎたんじゃ』143-144p
この辺りも珍しく教訓的だなと思ったけど、今の時代はもっと理想が高くなりすぎてる気がする。たぶん今なら「いいねが欲しい」「フォロワーくれ」「YouTubeで稼ぎたい」……そういう願いも入りそう。
時代って残酷だなとも思う。価値観が合わないことが増えていく。
物語はとっても面白いのに。