平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 –
2011/8/5 M・スコット・ペック (著), 森英明 (翻訳)
「平気でうそをつく人たち 著:M・スコット・ペック 訳:森英明」を読んでみた。
心理学系の本らしいというのはわかってたけど、思ったよりも普通の本だった。レビューを見てたら「キリスト教中心の話でわからない」というのもあったのでキリスト教話中心なら無理かも……と思ってしまったけど、概念を説明するために『悪魔』だとかキリスト教の善悪の話を混ぜてるだけだった。
キリスト教じゃなくても他の宗教でも善悪の概念はあるし、悪魔が嫌なら狐憑きでもいいわけで別にキリスト教の話をしてるわけではなかったなと思った。
ただ、抽象的で『それが悪になりえるのか』が理解できないと、『そんな人もいる』って言うだけの話になりそう。それを『悪』と呼べるのかは本の中でも、何度も確認しているし、何度も言葉を尽くして『自分を見つめず、事実を都合よく理解し、相手を傷つける』こと『悪と呼ぶだけ』と書いている。
この本が出版された時点では『悪』としか書きようがなかった事も、おそらく現代ではもう少し解明が進んでいて『こうなる原因はおそらくこの辺りから来ていて、ここを治すにはこういう手法がある程度有効』みたいな情報がありそうだなと思う。
結局本の中では解決策はない。親子関係と大人同士の関係性と、国(集団)と個人の関係性の話がまとめて書いてあるので、話を広げ過ぎててその辺りを一緒にしてしまうのはどうなのかなと思う点もある。
けど、全体的にはいい本だなと思う。
目次ごとに見ていく。
はじめにでは、この本が『善悪』を決める本ではない事を書いて注意喚起してある。それ以外に言葉が見当たらないので『善』と『悪』という言葉を使うだけという話。
第1章 悪魔と取引した男
この本の中心『平気でうそをつく人』の例が出てくる。事例では『自分がこうしたら死ぬ』という事柄に囚われる男が出てきて、それを避けるために『(頭の中だけの)悪魔と取引』をする。事柄に囚われて、確認作業をした場合に自分と息子は死ぬという取引を悪魔とする。息子は自分の命より大切な人という意味で引き合いに出されている。ただ、これら全てが『現実の家庭の崩壊』から目を背けるための出来事で、問題は『自分が死ぬかもしれない』という事に囚われることではないという事が後からわかる。
悪魔が出てきた時は完全妄想の話になるのかなと思ったけど、ちゃんと心理学の問題に立ち返って来たし、『それがいかに悪であるか』の説明もあるので読みごたえがあった。
第2章 悪の心理学を求めて
事例の2つめは『子どもを診る』ことになったけど、問題は親であり親が「うそをつく人」だったという話。
兄が拳銃自殺して不安定になったという弟に両親は兄が自殺に使った銃をプレゼントする……ホラーすぎてゾッとしてしまった。プレゼントした理由は「金がないから、家にあるものを渡しただけ」という。でも……たぶん、私はこれがわかる気がしてしまう。うちの親も似た部分があるから。さすがに拳銃なんて言う物騒なものは手に入らないけど、「お金がないんだから、もらったものをあげるぐらいいいでしょ。もらえないよりマシでしょ」と、要らないおもちゃを子供に渡して「子どもにプレゼントを渡す良い親」と思い込む人間程度なら、腐るほどいそうと思ってるんだけど。
そして、これの厄介なところは「子どもにプレゼントを渡さない親より、どんなものでもいいからプレゼントしようとする方が良い親」だと思っている人間が一定数いるだろうこと。
この拳銃の話も「子ども視点」で見たらゾッとするだけで、「親の視点」でみれば問題がないと考える人たちがいても不思議ではない。そして、そういう人たちにとっては「何が問題なのか」が見えないだろうなと。
本の中では「兄の自殺に使った銃をプレゼントされるという事は、お前も死ねと言っているに等しい事だ」という説明がしっかりついているけど、本当に怖いのはそう説明されても『そんなのわかるわけないから、この著者が勝手な事を言っているだけ』と思う人もいる。本の中でも親たちはそう言ってる。本の中だけじゃなさそうだよなと思って読んでしまうのキツイな。
100p
『虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。』
101p
『邪悪性の基本要素となっているのは、罪悪や不完全性にたいする意識の欠如ではなく、そうした意識に耐えようとしないことである。』
この辺りは頷きそうになるけど、こういう面は誰にでもあるという事も頭に置いておかないと自分自身がこの虚偽と邪悪の人になりそうだなと思う。その上で、『他人の虚偽や邪悪に付き合う必要はない』ということを頭の片隅に置いておきたい。
第3章 身近に見られる人間の悪
ここにある事例はもっと説明し辛い。簡単に言えば『子どもの話を聞かない親』だけど、親の責任を放棄しているわけではないので、外からは問題が見えない。文章を読んでも『親には親の都合があるのだから、こんなことまで邪悪と言われたら大半の人に当てはまる』という事になってしまいそうだなと思ってしまう。
『子どもの人権』を侵害しているという話で通じる人もいるかもしれないけど、日本で『子どもの人権』を把握している大人がそれほどいなさそうなのを考えても、この事例は現代でも説明し辛いなと思う。この時代(1983)に『子どもの人権』はあったかな……どうなのだろう。
146p
『邪悪性の最も典型的な犠牲者となるのが子供である。これは、子供というものが最も弱い存在であり、社会の影響を最も受けやすいものだからというだけではない。親というものはは子供の人生にたいしてほぼ絶対的な力を行使するものだということからも、当然のこととして予想されることである。』
親子の関係性は最初から歪みやすい性質をもっているのかもしれないと思う。人間は強大な権力を前に『それを振るわない』という選択肢を常にし続けるのは難しい。まして、その権力差に気が付いていない人間は尚の事。
この章には他にも事例が乗っている。
次の事例は大人同士の共依存関係。これ、私もそうなる可能性はゼロではないので人間関係って本当に難しいんだよなと思う。二人きりの関係性でさえ『対等でいる』というのはかなり難しいと思う。
もう一つは支配的な親から徐々に離れていくことができた子供の話。
これは、かなり稀な事例と書いてあるけど、確かにこれが出来たら大半の子どもは苦労しない。親を正しく見つめるのは自分を正しく見つめようとすることよりも難しいと思う。子どもにとって親は『神様』に等しいくらいの存在だから。でも、それは神様ではないから、親側も子供が自分をそう見ているとわかって支配的になる部分もありそう。
第4章 悲しい人間
患者に恋愛感情を向けられたという事例が載っている。おそらく愛着障害の話なのだと思う。
歪んだ愛情を向けられる度に、しっかり説明をしても全く通用しない。それでも最後まで『その対応は正しかったのか』と自問する。
自問する部分まで読むと、著者も人間なんだなと思ってしまった。ここまで分析的な話も絡めてたのでもっと冷静に俯瞰して診るのかなと思ってたけど、意外とそうでもない。この章だけ、毛色が違うのかなと思った。
第5章 集団の悪について
読み応えたっぷりの『戦時中の悪』についての話。この章も4章と違った意味で、毛色が違う。
ここまでは個人間の関係性の話だったのに、ここでは『集団』になった場合に人はどうなるかという事が書かれてる。個人的にはこの章は、『同調圧力』が強く働くために起こる事のような気がするので、これを『悪』と言ってしまうことには違和感がある。
この章は『極限状態で人は正しい判断力を失う』という事と、『目の前に存在しない現実を認識する力はない』という人間特性の当たり前と、人間社会の仕組みにおける弊害がごちゃまぜになってるような気がする。
個人的にはこの本に期待していたのは4章までの個人的な心理の話なので5章は、話を広げ過ぎていると思った。けれど、個人についても書いてあるので無駄な話でもない。
276p
『専門化には潜在的に悪が伴うということはすでに述べたとおりであるが、一方、専門化された個人は道徳的責任を組織内の他の専門化された人間、あるいは組織そのものに転嫁しがちである。』
縦割り行政でたらい回しにされるというのもこの辺りが問題なのだろうなと思う。いじめひとつとっても、『教育』ならば文部科学省だけど、『犯罪』ならば警察で、『しつけ』の問題になると家庭のこと。
学校は『お子さんが繊細だから家族で話し合って』といい。
親は『これは犯罪です。警察にいう』といい。
警察は『学校内の事なので手出しできません』になる……みたいな。いじめられた子供は蚊帳の外に置かれて、問題はどこでも相手にされない。
本に書いてあるのは『戦争』の話で、爆弾投下の事が書いてあった。科学者は『使い方は関知しない』官僚は『これを決めたのは自分ではない』最高責任者は『国民が爆弾での戦争終結を求めた』と言い出すというやつである。
ただこの本は『だから、一人一人がしっかり考えないといけない』という注意喚起まで書いてある。おそらく、この著者が言いたいのはそこなのだろうなと思う。
306p
『われわれの凶悪性はふとした出来心である。われわれが凶悪になるのは、まさしく、自分自身にたいする理解力をわれわれが持っていないからにほかならない。ここでいう「理解力」とは知識のことである。われわれは無知から凶悪になる。』
言いたいことはわかる。でも、『だから、無知はダメだ』みたいな方向でとる人がいそう。そうじゃなくて、おそらくここは『だから、みんなで教え合おう。考え合おう』みたいなものじゃないのかなと思う。本の中では『無知だから悪を行った』という悪の話に戻ってしまう文脈で書かれてる。
第6章 危険と希望
最後のまとめは、危険性は多々あるけど希望もあるよというふんわりした着地。
『科学的権威による偽装の危険性』として、科学を鵜呑みにするのも問題という事が書かれている。ネット上の議論(?)にも出てくるけど、『証拠あるの?』とか『そんな根拠はない』みたいなのをみかけるけど、人間は『信じたいものを信じる』ので根拠も証拠も作れてしまう世界で根拠も証拠もさほど意味はないのではと思う。
『証拠を出せ』と発言してる人ほど、根拠になりそうな資料やサイトを出しても『これはこうだから信用できない』とか『こんなの信じてるなんて、やっぱりおかしい』みたいな着地点になるのをみてると、そんなものを見たいわけじゃなくてただ『言いたい』だけなんだなと思う。
議論にならない議論は時間の無駄なので『現状、こういう情報もある』程度のやんわりとした理解でいいと思うし、その上で『自分はどんな風に思っているか』『どんな風に感じるか』を大切にするしかない。
おそらくだけど著者は『人権』という概念に基づいて、社会(世界)を見ようとしてるんだなと思う。でも、社会的にはそこまで『人権』という概念は広がってない時代なので、その概念を持っていない人を『悪』にしてしまってる部分もあるのではとも思う。
今でも人権の概念が広がってるといえるかどうかは微妙な気がするけど、著者の考えは素敵だったので、読んで満足。